ミステリにおけるリアリズム文学
Kei
last update:2004/07/18

近代の文学はリアリズム文学の天下だった、と称して異議はあるまい。日本の散文における近代文学の歴史は写実主義と称される 坪内逍遥『小説神髄』から始まる所からして、あきらかであると思う(注1)。写実主義は自然主義から私小説に受け継がれ、 今もなお書き続けられている(注2)。反自然主義としては、夏目漱石、芥川龍之介等がいるが、現在では内向の世代に受け継がれているだけであるから、 近現代の主流文学はリアリズム文学という前提のもので語らせていただきます。

さて、ミステリが誕生したのは1841年、ポーが『モルグ街の殺人』を発表したのが最初と言われています。上では、日本文学を メインに語りましたが、世界文学におけるリアリズム文学はというと、微妙で社会小説や政治小説がメインでリアリズム文学は メインには打ち出されたなかったというのは事実です。しかし、リアリズムが重視されていた時代、というのも事実である、私は邪推しています。 何故なら、古代・中世の文学というのは『千夜一夜物語』を筆頭に、リアリティの薄い話が平気で傑作として、出回っているのに対し、 ゲーテにせよ、ヘッセにせよ、ツルゲーネフにせよ、かなりの作家が実際ありそうな出来事を書いており、リアリズムがいかに重視されていたかは そのあたりに、垣間見る事が可能だと私は考えています。
世界文学をリアリズムの流れが斡旋していく中、今まで大衆小説などと言って片付けられていたファンタジー小説にも 理屈を求められるようになったのでしょう。そうした中、ファンタジー小説おきる不思議な出来事に、論理的説明をつけようとしてのが、 ミステリ、科学的説明をつけようとしたのがSFではないかと、私は考えるわけです。両方とも、十九世紀という同時期(注3)に 誕生したのは、決して偶然ではなく、世の中を席巻するリアリズム文学に流された結果ではないか…とも言えるわけです。 ちなみに、その後ファンタジーは理屈を求めない子供相手に流れていき、児童ファンタジー(注4)として現在も残っていることは 周知の事実ですが、大人向けファンタジーは現在のところあまりない、というのが現状でしょうか。

ところで、皆さん、この論文(と言うには、余りにもちゃちですが…)のタイトルはご覧になりましたか?(注5) 「ミステリにおけるリアリズム文学」って、もう語り終わってるんですよ、実は。もう、ミステリの誕生でリアリズム文学の関与性を指摘した所で、 この論文の目的は達成されたんですが、その後の歴史を見ていくうえで、まだリアリズム文学が関与している事件が あるようなので、まだまだ検証を続けていきたいと思います。

ジャンルと言うのは、一旦生まれると、一気に拡大傾向を見せるジャンルと、あっとう言う間に消えてしまうジャンル(注6)があるようですが、 ミステリやSFは恵まれた事に前者でした。ミステリもドイル、SFはベルヌ等の登場で一気に隆盛を極めました。 しかし、当然ながらネタの枯渇状況と言う自体が登場します。これが出てくると、大抵のジャンルは衰退期を迎えます。 恵まれた事に、SFはネタの枯渇状況が訪れなかった数少ないジャンルです。言うまでもなく、二十世紀の科学技術の発展でネタ切れは なかなか訪れなかったんですね。月面着陸、ボイジャー二号、相対性理論(注7)等々ネタには事欠かなかったジャンルです。70年代にSFブームが全盛を迎えたのも、 偶然ではなく必然であったわけです。逆に、ミステリはどうかというとこちらはネタの枯渇状況は深刻です。
有栖川有栖氏の言葉の通り、「センス・オブ・ワンダー」というキャッチフレーズのもとどんどん(科学的な見かけ上の裏づけの元)発展していったSFに対し、 逆に一点に収縮するミステリは、ルートのつけ方も少なく、特にトリックや意外な犯人等は枯渇状況は深刻といえました。 その枯渇状況を打開する為に荒唐無稽なトリックや犯人を連発していきました。言うまでもなく、リアリティの必要性から生まれたジャンルで以上、 これは事実上のジャンルの衰退を語っていたわけです。SFでは、科学という読者が無知なものを武器に、科学的に見せかけることに寄って、リアリティを持たせていた 為に、このような問題はおきませんでしたが、ミステリは機械、心理トリックを問わずすぐに現実で実験してみれば、それが出来るか、出来ないかはわかるわけですから、 SFよりも、はるかにリアリティの必要性があったわけです。しかし、リアリズムを追求しすぎると作品が平凡な物になってしまう…つまり、ミステリは堂々巡りに入ってしまったけです。

いかに、リアリズムを追求しつつ、ストーリーに新鮮味を出すか?これが、戦後ミステリ界に課せられた課題でした。 それの解決策として、サイドストーリーで話に新鮮味を持たせようというのがWhydunit?ミステリの登場です。大下宇陀児がすでにWhydunit?ミステリ の隆盛は予言しており、現実的にそうなりましたが(特に本格・注8参照)、こちらが解決方法の主流とは言いがたいでしょう。
逆に、新鮮味ではなくリアリティを追求した解決策がありました。言うまでもなく、社会派推理小説、つまり松本清張の登場です。 松本清張『点と線』では汚職という、いかにも現実にありそうな(というか、あってますが・笑)ものの動機を配置することに寄って、 動機にリアリティを持たせました。それと同時に、社会問題というネタの絶対尽きない題材を選び出したことに寄って、ミステリの一度陥った穴をSFと同じ手段で回避したわけです。 その後社会派ミステリは隆盛に至り、現在の宮部みゆきまで受け継がれているのは言うまでもないことでしょう。

つまり、ここまでダラダラと述べてきて、結局何が言いたかったかというと、
「リアリズム文学のおかげで社会派ミステリが生まれた」
という冷静に考えれば、当たり前のことをダラダラと述べていたわけで、自分でも気が滅入ります。 まもなく、本格冬の時代と呼ばれる時代をすっ飛ばして、一気に新本格世代に入ります。あと少し、ご辛抱の程を。

さて、1987年大事件がおきます。綾辻行人『十角館の殺人』の登場です。これは、「ミステリおけるリアリズム文学」という タイトルでダラダラと語っていた筆者にとっては、大打撃と言っていいほどの事件です。全く、リアリティを無視した シチュエーションにトリック。昭和40年代には内向の世代(注9)が登場し、リアリズム文学が崩壊を向かえ10年近く立っていた 為リアリズムの追求という目的を失った為か、あるいはネタが尽きないと言われる社会問題でも新鮮味が無くなったか。 ただ、80年代にファンタジーブームが興ったこと(あるいは90年代のSFの衰退とホラーの隆盛)は、 リアリティの追求の必要性が無くなったところに起因しているのかもしれない。
どの検証が正しいかはともかく、新本格というジャンルはあっとう言う間に隆盛してしまった。そして、再び同じ問題に直面してしまった。
「ネタ不足」
古典作品でほとんどネタは出尽くしたのに、また新本格が隆盛したところで、そんなに長く続くわけは無い。 1992年(注10)までを新本格第一期世代と呼ぶのは、たった五年しか持たなかったということだ。本来ならば、新本格は そのへんで終わっているはずだった。ところが、リアリズム文学の衰退の乗じたのか、全くリアリティを無視した 大型新人が1992年に登場した。言うまでも無く、麻耶雄嵩である。前、リアリズム文学を追求の上で苦肉の策として生まれたのが論理と指摘したが、 従来の世代(新本格第一世代)が守っていた論理を、完全否定するような結末を持ってきたのだ。言わば、 ミステリにおける初めてのリアリズム文学から完全脱却であり、同時にアンチテーゼ(ならば、脱却とは言わないが注11)でもある。
その後のミステリの展開は言うまでも無い。さらにリアリティを無視した清涼院流水の登場、清涼院流水を御大と呼び 慕う西尾維新をはじめ、流水並みにありえない密室トリックの舞城王太郎、結末にSFめいたこと(注12)が入る佐藤友哉、 などのメフィスト賞受賞の若手作家のリアリティのなさは、何とも言いがたい。純文学界で、三浦哲郎を始めとするリアリズム文学が衰退していくなか、 舞城王太郎や、佐藤友哉のすでにリアリティの欠片も持たない前衛作家の純文学進出(注13)は必然の事だったのかもしれない。

リアリズムはいつまで追求されるのか…ミステリに影響を与え続けたリアリズム文学からの脱却を出来るのか?
リアリズムの追求が目的で生まれた社会派の現状を見ても、宮部みゆきは『模倣犯』以降は、社会派ミステリの傑作を世に送り出していない。 さらには、高村薫は『マークスの山』以降、徐々に純文学系統の作品にシフトしている。
九十年代中ごろ、リアリズムを追求するSFは暗黒時代を迎えた。逆に、積極的な理由付けを必要としないホラーが隆盛を迎えた。
ライトノベルレーベルのファンタジー系の文庫から、大ベストセラー作家の小野不由美が生まれた。
本来、児童文学である「ハリー・ポッター」の大人社会の進出はリアリズム文学の衰退を表しているのかもしれない。

これまでのいい加減な検証で、ミステリ内のリアリズム文学の影響力を自分だけ勝手に実感している。
これを呼んで、賛同する人も反対する人も、私がこんなことを言う理由はお分かりになっただろうか?
言うまでも無いかもしれないが、社会派ミステリだ。宮部みゆきは結局は、ベストセラー街道を駆け抜けている。 『マークスの山』だって文庫化の際には、かなり売れた。一体、この原因は何だろうか?と考えたのが一応始まりでした。
慣れない文学の資料をめくり、めくりどうにかいい加減な駄文をここまで書くとことが出来ました。 午後六時から書き始めたのに(途中、中断していたとはいえ)、すでに日付を回っています。本当に、明日(いや、今日)が日曜日で幸いでした。
最後に、この駄文をここまで読んでくれた人に、本当に、本当に感謝の意を捧げます。Thank you.でも、ダンケシェーンでもメルシーでもグラシアスでも、謝謝でも、 カムハサムニダ(注14)でも何語でもいいですが、ありがとうございます。
それと、本当にご苦労様でした。ちなみに、私は文学、SF等には大変無知です。ミステリに関しても、知識量は決して 多くありません。従って、かなりの認識上の間違えなどがあると思います。そういう時は、ご苦労ながら教えていただければ…本当に、作者冥利に尽きます。

#注釈#
注1:小説という言葉を作ったのも坪内逍遥。ちなみに、韻文も写実主義が隆盛を極めていた。
注2:三浦哲郎を筆頭として、今では柳美里や辻仁成とか。金原ひとみ『蛇にピアス』もか。ただ、現在私小説は 「内向の世代」の流れ(例えば、村上春樹の狭い青春世界)を汲んでおり、ひとえにリアリズム文学とは決め付けれない。
注3:SF最初の作品は諸説あり、まだ不明。『海底二万マイル』や『八十日間世界一周』説などがある。
注4:言うまでもなく、代表選手は「ハリー・ポッター」。日本でも、ライトノベルを中心にしてファンタジーが出されている。 日本ファンタジーノベル大賞などもあるが、どうもファンタジーっぽくない作品が多い気が…。
注5:うちの高校のカリスマ(?)国語教師に寄れば、論説文を読む時はまず題を見ろ、というのが鉄則らしい。 ちなみに、小説の時は題名と著者名は見ないことが肝心らしい…、あっそ。
注6:純文学界を一時騒然とさせた、J文学はJ-POPよりも先に、どころか2、3年で死語と化した。
注7:これがタイムマシーンに強引な理屈付けをさせることとなった、と思われる(すいません、SFは詳しくないんです)。
注8:Whydunit?ミステリが隆盛を迎えるには、まだ時間を置く必要性がある上に、リアリズムとは直接的には関係ないので、ここでは取り上げません。
注9:内向の世代である古井由吉などのあとに、続く昭和50年代の文学(W村上とか中上建次とか)も反リアリズム文学と思うんですが、 参考資料を探してもそんな記述はないので、W村上等への具体的な検証はさけます。
注10:一般的に、第一期終了は1990年と1992年説があるが、やはり第二世代は麻耶雄嵩から始めたいので1992年説を取っています。 ちなみに、笠井潔がこの年に新本格第一世代のデビュー作のシリーズが終わった年と指摘しています。
注11:これは筆者の主張で、アンチテーゼというのはその元の物から強い影響を受けているということ。
注!2:ちなみに、SFミステリは最初からSFが入ることが前提になっておりその了解の上で論理性を展開しているが、 佐藤友哉の小説(特に『フリッカー式』『エナメルを塗った魂の比重』)は最後だけSFが入るという論理性を無視した形になっています。 その論理性の無さを指摘しているのであって、SFミステリとしてのリアリティの無さを指摘しているのであしからず。
注13:メフィスト賞でデビューしたこの二人は、「群像」や「新潮」に進出している。 特に、舞城王太郎は『阿修羅ガール』で三島賞を受賞、『好き好き大好き超愛してる。』で芥川賞にノミネートされた。
注14:順番に、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、中国語、韓国語となっております。でも、合ってたかなあ…。

#参考文献#
新訂国語図説(井筒雅風他協編/京都書房)
ミステリアス学園(鯨統一郎/カッパノベルス)
文学賞メッタ斬り(大森望・豊崎由美共著/PARCO出版)

#どうもいい、もう一つのあとがき#
何か、本文中にも最後の方は、あとがきらしきものを書いてるんですが、もっと軽い気分であとがき。
いやー、疲れましたよ。こんなに、ダラダラ書いたら。余りにも、多いので原稿用紙カウンターで測ったら 注釈も含めてなんと原稿用紙15枚分(笑)。これを読破できる人がいたら、本当に敬意を称しますね。 小説もこのペースで書けたらなあ…と思うんですけどね。
本当に、お疲れ様でした(読者にも、自分にも)

#最後の一言#
でも、佐藤友哉にがんばっていただきたいですねー、Jのいじめに屈せずに。 頑張れ、千鶴。最後には、キミが勝つ。
↑無視してもらって構いません

ついでにKiroro「Best Friend」にも
↑この駄論を執筆中、ずっとリピートで流れてました

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