敗れ去った幻想

北川伝説2


すさまじい大爆発がメイン州の田舎町チェンバレンにあるトーマス・ユーイン合同ハイスクールを揺るがした。
――スティーブン・キング『キャリー』永井淳訳 新潮文庫

prologue 一月の年賀状からはじまる

「あけましておめでとうございます。2004年もいよいよ始まりました」
ブラウン管の中ではNHKのアナウンサーが2004年の幕開けを伝えていた。初詣から帰ってきて、うとうととしかけていた早坂聖《はやさか・ひじり》は、NHKのアナウンサーの声で起こされた。
 もう、すでにあの事件――北川での発砲事件を発端とする一連の事件――からは二年経っており、当時高三だった早坂聖は無事に浪人も留年もせずに地元のK大学の二年生になっていた。あれ以来、安栄姫《あん・よんひ》と名乗る女性とは会っていない。結局、あの事件が聖にもたらした影響と言えば、出生の秘密がわかったことと、実の父親である甲斐正は1986年の時点で死んでいたこと、東玲奈《あずま・れな》との破局ぐらいか。よく考えてみれば養親との仲もこじれてないわけで、聖にとしては大したことのない事件だったわけだ。
 聖は勢いよく立ち上がると、玄関に向った。すでに、時計は正午を過ぎている。もう、そろそろ年賀状が届いてもいい頃だと聖は思ったのだ。早坂家は古くからの一軒屋で、F市の南西部に位置する北川にある。F市自体は百万都市の都会なのだが、北川は山奥にある。最近は、新興住宅地を開発する計画が三、四年おきごとに飛び出すのだが、その度に何らかの理由で中止になっている。噂によれば、この辺の山を持っている川島家のじいさんが死ぬまでは、中止になり続けるだろうという噂だ。
 玄関を出て、ポストを覗き込むとやはりもう来ていた。最近は、やたらとパソコンで作り、大量生産大量発送したと思しきものが目立つ。そして、手書き部分は「今年もよろしく」としか書いていないという、実に五十円が無駄な葉書だ。それなら、「今年もよろしく」もパソコンで打てばいいじゃないかと、聖は思う。もっとも、自分だって年賀状書きにパソコンは積極的に導入しているので、余り人の事は言えない。
 あと、聖はまだ思うことがある。宛名面だ。宛名面は実に機械的に文字が並んでいるだけで、全て同じ住所が書いてある貰う側としてみれば物足りない、と最近聖は思う。延々と
「F県F市S区北川二丁目五番12

早坂 聖様」
というワープロ文字を見せられる方のことも考えていただきたい。かといって、どういう解決法があるのかと問われても困るのだが…。
 リビングで両親の分と自分の分をわけると、両親の分はそのままリビングに置きっぱなしにして、さっさと自分の分の葉書を持って二階の自分の部屋に戻った。大学生になって一人ぐらしを始めた友人は、帰省したらいつの間にか自分の部屋が無くなっていた、と言っていたが、自宅から通学している聖にとっては関係ない話だ。早速、自分の部屋で葉書をめくる。やはり、大学の友人、高校時代の同級生が中心で一枚一枚丁寧にめくっていった。五枚目に達した時に、聖はその問題の宛名面の文字に目を見開いた。

「F県F市S区北川2丁目5番12

早坂聖 様

F県F市S区北川4丁目2番14
東玲奈」

宛名面は、パソコンで印刷されたらしく、年賀状には珍しくゴシック体で住所が書かれていた。東玲奈――北川での発砲事件でのもう片方の主役を演じた人間だ。そして、聖とは対照的にその事件で大きく人生が変わった一人だ。聖の場合、あの発砲事件から一連の事件の意味を考えたとき、自分の人生に大きな影響があったとは思えない。まさか、あの事件のおかげで大学に受かったということも無ければ、体に後遺症が残ったわけでもない。せいぜい、警察に十指指紋を残されたぐらいだ。が、東玲奈は違った。玲奈はそれ以降、精神的ショックを受けたのかは不明だが、しきりに体調を悪くし、しばしばと学校を休むようになった。最終的に、一月から二月にかけて入院を余儀なくされ、大学受験を受ける事が出来なかったのだ。玲奈は入学当初から学年で成績トップであり、開校以来初の京大入り(東大で無い所がミソだ)も期待されていただけに、学校関係者も悔しがったが、最も悔しがったのは当然本人だ。玲奈自身は、大学名は明言していなかったが、大学へ現役で行く事だけは明言していた。それだけに、玲奈が大学を受けれなかったあと、聖がいくら「来年があるじゃないか」と言っても、本人はウンともスンとも言わなかった。まあ、大学にストレートに入った同級生から「来年があるじゃないか」と言われても、説得力がないのはわかりきっていたのだが。それ以来、同じ校区内ゆえに全く会わないということはないが、ほとんど会っていない。だからこそ、玲奈は今年は受験で忙しいだろうという聖の思いもあり、玲奈には年賀状を送っていなかったのだ。
 ところが、こうして年賀状はやってきた。玲奈はパソコンは決して得意ではない。それどころか玲奈はメカ音痴で、中学時代に聖が手取り足取り教えてやったほどだ。とは言うものの、玲奈は書道五段の腕前を持っているので、ワープロやパソコンはいらなかったという事情もあったのだが。だから、パソコンを教えた甲斐もなく、子供の頃から。大変立派というか、女の子らしくないというかは人によりきりだろうが、達筆な年賀状を毎年頂戴している。
 その玲奈が、パソコンで年賀状を送ってきた…玲奈に何か変化が置き始めている兆候ではないだろうか…。それが、いい変化ならばいいが…、と新年早々から聖は心から願った。

Chapter 1 明暗の分かれる四月

 北川は在野の自称郷土歴史研究家にとっては垂涎の的と言われている。北川は交通の要所でもなければ、貴重な鉱物資源がとれるわけでもない。肥沃な土壌は愚か、山の斜面に棚田がへばりついているような、全く魅力のない村なのだ。田んぼは江戸時代の定義からすれば下田だ。特別な地形があるわけでもない。しかし、ここは江戸時代において、この辺り一体を治めていたF藩の支配は受けておらず、幕府の天領扱いになっていた。しかも、天領と言うのは名ばかりで、北川の中では自治政治が展開されていたとされている。
 江戸時代において、これだけの狭い範囲にこれだけの自治権が与えられた場所はない。江戸幕府は各藩の集合体であり、決して中央集権国家ではなかったが、従来の武家社会に比べれば、中央の力は絶大なものだった。にもかかわらず、筑前国北川だけは、幕府も藩も掌握できなかったのだ。こんな例は、陸奥の国から薩摩の国まで――つまり日本中――探してもここ以外ありえない。
 これまで多くの在野の郷土歴史研究家がこの北川の歴史の謎に挑んでいたが、誰一人として解けたものはない。F藩の歴史書を紐解くと、北川を制圧をしようとして幕府の許可を得てF藩は幾度となく軍隊を派遣したのだが、いずれも敗北以外の何らかの理由――最も多いのは、軍隊が川に転落したという事故――で、征服に失敗している。その証拠に、F藩の年貢帳には北川の文字はない。それは、自治組織が租税権も掌握していたということを示している。
 その自治組織の実態という物は明らかにされていないが、川島家の人物が代々政権を担ってきた、ということはわかっている。北川の歴史書というものはあるわけもなく――現存していないだけという説や、未発見のままだという説もある――その多くは謎に包まれている。
 その謎に取り付かれた在野の郷土研究家は現代も多い。K大学三年生の江川健治《えがわ・けんじ》もその一人だ。K大文学部国史学科に属している健治は、授業の傍ら、趣味で郷土の歴史も掘り返している。趣味の事を史学科以外の友人に話すと大抵馬鹿にされるか、「おっさんくさい」といわれる。まあ、郷土研究家というのは大抵の人は定年後の「暇つぶし」としてやっている人が大多数なのだが。しかし、健治の興味をその「おっさんくさい」郷土研究にひきとめているのは「北川の謎」だけである。いつか、北川の謎を解くべく日々資料をめくっては頭をなやませているのだが、全く解ける見込みはない。当時の噂を調べようにも、江戸時代の風俗本などは、江戸が中心であり、地方には余りない。そんな中、「大宰府風俗伝」と呼ばれる本が江戸で出されたことがあるそうなのだが、大変貴重でなかなか見当たらないのが現実である。

 東玲奈は今年――つまり、2004年――の四月も大学の門をくぐる事は出来なかった。原因はまたもや病気である。今回は高熱をおして試験を受けたのだが、高熱による理系科目の相次ぐ計算ミスや、文系科目の度忘れ、漢字やスペリングミスが相次ぎ、地元のK大学に滑った。かつては、自分がA判定を出したこともあるK大学への不合格は、玲奈を虚脱状態に追い込み一ヶ月を丸々無駄に費やした。そんな状況で受けた後期試験も受かるわけが無く、今年も浪人生というレッテルを貼られることとなった。
 この二度の不合格は、すでに玲奈から大学進学への意欲を奪っていた。浪人生というレッテルのまま今年の六月で玲奈は二十歳を迎えることとなる。この原因は、やはりあの事件が元だとしか思えないのだ。玲奈の出生の秘密、実の「きょうだい」、そして母親…。それらが、玲奈を未だに苦しめ続けている。
 さらに、その原因の一端に卒業式答辞の事件もある。北川高校では、代々三年間通じて首席だった生徒に答辞を読ませるのが通例になっていた。玲奈が卒業する年の三年間通じた首席は玲奈だったのだ。職員会議でも、大学受験を受ける事の出来なかった玲奈に答辞をさせるのは、本人も辛いだろうしなどの様々な理由で、否定的な意見が多かったそうだ。しかし、結局打診だけでもしてみたらどうかという意見に落ち着き、玲奈の担任教師が玲奈本人の意思を確認してきた。それを伝えた教師の口調は今までに聞いたことのないほど柔らかく、否定の返事を最初から期待しているような聞き方だった。当然、玲奈も答辞なんか読む気は全く無かった。が、何を自分でも考えたのか忘れたが、一旦保留したのだ。自分のどこかに、自分の「きょうだい」である聖の意見を聞いてみたかった自分がいたからかもしれない。そして、聖に相談した。聖は何も理由を言わず「やったほうがいいんじゃない?」とだけ言った。それを言われた時、玲奈は、保留した時点から聖の意見に従おうと思っていたことに気付いた。そして、玲奈は卒業式総代として答辞を読んだ。
 それから一年が立った。学校の首席だったことなんて、とうの昔に忘れている。かつては持っていたちっぽけな自尊心――それの象徴が卒業式の答辞だ――なんて、二回の受験失敗で粉々に砕かれてしまった。
 全てはあの事件のせい…、早坂聖の絡んだあの事件のせい。
 その時の玲奈は、かつての玲奈が持っていたクールさも、二度の受験失敗ですでに失っており、限りなく感情的になっていた…。
 
 ポルターガイスト現象と呼ばれるものがある。ひとりでに物体が空中を浮遊したり、物音を立てたりする現象のことをこう呼ぶ。このポルターガイスト現象は、思春期の子供がおこしたテレキネシスが原因だと言う説が有力になっている。テレキネシスとはTKとも略され、日本語に訳すと念動能力とかいう訳になる。
 川島桐子《かわじま・とうこ》にとって、ひとりでに物体が空中を浮遊したりすること――いわゆるポルターガイスト現象――は子供の頃から日常茶飯事のことだ。子供の頃から、兄弟でおやつの時間にリビングでプリンを食べようとした時、スプーンを台所から取ってくるのを忘れたと思った途端、台所の方向からスプーンが二個浮遊してきたこともあった。子供の頃は何とも思っていなかったのだが、大人になるにつれこの現象が普通でない事に気付いてきた。ポルターガイスト現象は思春期の子供――特に男の子――がおこす事が多いと聞いた桐子はおそらく三つ下の弟が犯人だろうと決め付けた。今になっても、その真偽は確かではない。結局、そんな真偽は大したことではなくであり、川島家にとってポルターガイスト現象も慣れた物であって大したことではない。まだ、隣の犬がいなくなったニュースの方が、ポルターガイスト現象よりも重要なことなのだ。川島桐子においても、ポスターガイスト現象は超能力現象でも何でも無く、すでに日常生活に埋没していた。
 そんな桐子の今の最大の関心事は今度のテニスの練習試合で勝つことであり、明日着ていく服なのだ。
 結局、桐子は普通の大学生活を謳歌しているところから、渦中に巻き込まれる事になった。

Chapter 2 パックス・ロマーナ

「次は北川、終点です。ご乗車ありがとうございました。次は、北川、終点です」
バスのアナウンスは終点の北川の名を告げた。終点だからと言って、バスの営業所があるわけでも何でもなくて、このバスはここから折り返し中心部に戻るのだった。北川がF市の辺境扱いされていることが良くわかる。その証拠に、始発時は満杯だった車内だが、北川に来るまでに多くの乗客が降りてしまって聖と桐子を除けば、客は2、3人しか残っていない。さらには、窓の外の風景も街路樹から雑木林に変わっていた。時々、山の中にピンク色の固まりが見える。すでに四月中旬に入り、ソメイヨシノの季節は終わっているからおそらく八重桜だろう。
 聖と桐子が同じサークルにいて、二人とも北川出身というわけで、しばしばと一緒に帰ることになる。
 二人は揃ってバスから降りた。バス停は二人が通った北川高校の前にある。聖と桐子は、北川小学校、北川中学校、北川高校、K大学と全く同じ学歴を辿ってきたことになる。
「そう言えばさあ、レナちゃんまたすべったって?」
学部が違う聖と桐子――聖は工学部、桐子は薬学部なのだ――は、二人になっても、サークルのこと以外は共通の話題はない。仕方なく、同級生の近況の話になったのだ。その中で、二人の共通の友人である東玲奈の話題は二人の最大の関心事ではあった。
「らしね。また、病気にかかったらしくて…、あいつ昔から体は強くなかったけど、受験シーズンに毎年のように風邪をひかなくてもよさそうなものをなあ…、もっと運動すればいいのにさ」
と、聖は嘆いた。が、嘆いても仕方ない。落ちたものは落ちたのだ。
「テニスとか?」
桐子は笑って聞いた。二人ともテニスサークルに所属していたからだ。最も、半分ぐらいは遊びサークルだが。
「まあね、テニスはいいかもしれない。でも、北川にテニスコートなんてあったっけ?」
「あるわけないじゃん、こんな田舎に」
桐子は聖の質問をきって捨てた。
「そうだよね、俺も家の塀で練習してるもん」
嘘である。聖が家の塀で壁当てなんかやったことは、ないわけではない。しかし、それは聖が少年野球に所属したころ――つまり小学校の頃――に、野球ボールでやったぐらいだ。
「嘘でしょ?なら、何であんなに下手なわけ?」
聖が日頃練習を真面目にやってないことなぞ、桐子には百も承知だったようだ。決して、聖も大してレベルが高くないサークル内でも、強い方ではない。中の下ぐらいと、自分では思っているのだが。
「おれ、絶対川島より上手な自信がある。だって、川島はバックハンドとか片手で打ち切らないじゃん?」
テニスにはフォアハンドとバックハンドという二つの打ち方がある。フォアはテニスラケットを持っている方向(通常右側)の玉を打つ方法であり、バックは体より反対側(普通左側)の球を打つ方法である。前者に比べて、後者は力がいる打ち方である。
「性別の違いだって。女子はほとんどバックハンドは両手で打ってるじゃん」
これも、真実である。男子テニス界ではバックハンドも片手で返すのが普通だが、女子テニス界はバックハンドは両手で返す選手が多い。
「ま、そうだけどね。でも、川島よりかは絶対強い。それだけは自信ある」
聖は言い張ったが、正直言って余り自信ない。桐子のスマッシュはサークル内でもピカ一で、特にダブルスの試合になると無類の強さを発揮した。サークル内で混合ダブルス戦をやるとペアの申し込みが桐子に殺到するのも、あながちかわいいとか大学生にありがちな理由だけではない。
「えー?一ゲームにダブルフォルトを必ず二回はするのに?」
聖は顔をしかめた。聖のサーブ精度の低さは桐子のスマッシュ並みに有名で、球は速いが入らないというのが、サークル内での定評なのだ。それにしても、二回は大げさだと思うが。ダブルフォルトとは、サーブを二回連続で失敗する事で、相手に一点与えられる。フォルトは英語のfaultからきている。
 テニスは一ゲーム四点マッチになっている。それを六ゲーム取ればそのセットを取れることになっている。
「じゃあ、今からやるか?」
「やるって、どこで?」
先ほども言ったように、北川にテニスコートはない。
「児童公園の鉄棒でいいんじゃない?」
鉄棒をネット代わりにしようという魂胆だったのだ。われながら名案だと、聖は心の中で自画自賛した。
「ええ!?鉄棒はネットよりかなり高いじゃん?」
「ま、気にしない」
聖はそう言って、肩からお互いかけているラケットを手で示した。二人はサークル帰りであって、テニスラケットを丁度持っていたのだ。そのまま、二人は北川の児童公園に足を向けた。

 土地だけは山のように余っている北川だけあって、児童公園もだだっ広い。北川自体さほど大きな集落ではないので、子供の数からすれば広すぎる程だ。その証拠に、日曜日などはよく少年野球チームが練習試合をしながら、少年サッカーチームも練習試合をやっている。グラウンドの隅の方にわずかばかりの遊具がある。鉄棒はその遊具の一番端にあった。言うまでもないが、芝なんていう便利なものは生えておらず、グラウンドの砂が剥き出しになっているから、余りテニスにふさわしい地面ではないが、文句ばかりも言っていられない。早くしないと、日が沈んでしまうからだ。
 四時過ぎというだけあって、普段に比べて決して子供の数は少なくなかったが、まだテニスどころかサッカーが出来るだけの広さは残っていた。人気のない鉄棒周辺なんかは、人影もない。
 地面にラケットで線を引き、いよいよ試合開始という段階になって、運良かったのか悪かったのか――聖としては運が悪かった――、聖が先にサーブすることになった。
 エンドラインに立ち、サーブの姿勢を構える。ボールを放り上げ、聖お得意の強烈サーブを放った。ボールはスピードに乗って、見事に鉄棒のしたをくぐっていった。
「フォルト!」
という桐子の威勢のいい掛け声とともに、くぐって桐子の前まで転がっていったボールが返ってきた。

 ふと、珍しく玲奈は外出しようという気になった。去年は、自分は根を詰めすぎていたと反省したのだ。まずは、散歩でもしてみてから自分の人生を決めよう、と思ったのだ。
 散歩する場所については、北川においては困ることはありえない。あちらこちらに、自然は残っているし、ちょっと北川高校の裏の山を登ればダムがある。ダムの周りをぐるっと、散歩するのもよし、北川の集落の中をブラブラと歩くのもよし、様々なコースが考えられる。どちらも、歩道は余り整備されていないが、車道を歩いていてもほとんど車はこない。大きな音が後から聞こえてきて、何かと思ったらトラクターだったという笑い話も少なくない。
 出来る限り人と会いたくない玲奈は、ダムの方向に向う事にした。ダムの方向に向うには、玲奈の家からは児童公園を突っ切って高校の裏に出て、階段を上るのが一番早い方法だ。玲奈はカーディガンを羽織ると、外に出た。春の冷たい風が、玲奈にあたる。今日は、最高気温が余り高くならないと、天気予報が言っていた事を思い出した。さらに、午後四時を回っている。カーディガンを着てきて正解だった、と玲奈は思った。
 ふらふらと色々考えているうちに、いつのまにか児童公園の入口に達していた。無意識のうちにここまで達していたらしい。私って意外と頭いいのかもね…、などと自嘲的な響きを伴いながら玲奈は考えた。ここに、もしここに聖がいたらきっと「意外じゃないよ、そんなこと当たり前じゃないか」と言うのかもしれない。聖はかなり本気に玲奈の才能を買っていた一人だった。玲奈自身大して信じていなかった才能――成績だけがたよりだった――を、大いに褒めたたえ「京大に受かる」と豪語した男こそ聖だった。今では、何故東大ではなく京大だったかは知るよしもない。実際、一浪中には京大法学部にB判定出したこともある。が、それが今では過去のことになっている事は自分が一番知っていた。聖は事件後もずっと傍にいてくれたが、聖が大学に入学するとピタリと連絡は途絶えた。たまに、偶然会う程度だ。その時だって、長々と話すわけではない。酷い時はあいさつだけのときもある。
 早坂聖…実のきょうだい――正確には双子の弟――はK大学に入った。私はそのK大学に落ち、未だに浪人生のレッテルを貼られている。そこには、まるで見えない壁が存在しているかのように。
 児童公園を突っ切ろうとした玲奈は、ある一点に目がとまった。公園の隅にある鉄棒の前に早坂聖と川島桐子が並んで立っていたのだ。二人とも手にテニスラケットを持っている。つい、玲奈はその場からずるずると傍に立っていた木の後ろに歩いていった。幸い、まだこちらには気付いていなかった。木の陰に隠れながらも、視線はそのまま二人に釘付けのままだった。
 聖と桐子はしばらく話し合っていたが、鉄棒を挟んで両サイドに離れた。そして、聖がラケットを振り上げ、テニスボールを打った。そのボールはすごいスピードに伸びていき、鉄棒の下をくぐり抜け桐子に二バウンドでぶつかり止った。その一帯に桐子の「フォルト!」という楽しげな声が響き渡った。そして、聖は今にも舌を出しそうな表情をした。
 聖が再びサーブを放った。今度は鉄棒の上を越えていった。しかし、ラインを超えていたらしく――テニスを知らない玲奈にとって、どの線がラインかわからなかった――、桐子はボールを手で掴み聖にボールを返した。「ほらー、やっぱりダブルフォルト!ラブフィフティーン」という、実に楽しげな声を上げながら。今度は、聖は本当に舌を出した。
 しばらく、二人のテニスを見ていたが二人とも素直に喜怒哀楽を出していた。試合は五分五分のようだった。見ているうちにいたたまれなくなり、試合の結果を見ずに公園から立ち去った。玲奈の中から散歩しようなんていう気はとうに失せていた。

 最近、昔の北川の研究も大分進んできて様々な事がわかってきた。例えば、北川がいつの時代から自治政治が始まり、いつ頃に終わったかという点である。戦国時代群雄割拠の時代になった頃、F市付近は度々支配者が変わった。その隙を突いて自治政治を初め――その時代では堺をはじめ、各地に自治都市が登場した――防衛上好条件だった事もあり、江戸時代まで残ったのではないか、というのが始まりの説としては通説だった。終わりについても、明治維新のときだろうといういい加減な推論が通説だったのだ。ところが、最近ある北川研究家に寄る新たな新説が発表された。曰く「税の記録がしっかりしてくる平安時代から江戸時代までずっと探しても、北川という文字は見当たらない。また、最近見つかった平安時代の大宰府権帥への命令書には『北川集落監視の事』も、その他の指令とともに一項として記されていたという話が出ている。以上のことから平安時代頃からすでに自治を開始していた」というのだ。また、終わりに関しても明治一四年前後まで自治を行っていた、という説が最近有力になっている。何故なら、明治時代にF市で発行されていたかわら版には、自治を続けるか否かで、北川の代表者――川島藤十郎と言うらしい――と、F市のトップが会談を続けたという記述があるからである。それが、ようやく合意に達したのは明治一四年だったと思われる。思われる、と書いたのはそのかわら版には「北川、自治崩れる」などの記事はなく、会談を続けたという記事がなくなったが明治一四年前後だからである。従って、いつまで北川が自治を続けたかは誰にもわかっていない。

「ここからが、大事なんだよ、健治君」
もう七十に近いであろう仲間の郷土歴史研究家は健治に言った。郷土研究家の仲間は大抵健治よりも五十歳以上年齢が離れている事も多く、渡っていくのもなかなか大変だが色々情報収集をしないと、北川の謎は解けない。そもそもが、残された資料が少ない。従って、その少ない資料を得るため、健治はしばしば仲間の郷土研究家と喫茶店などで会い、情報交換を行っている。今日の相手は、明治時代のF市を主に研究しており、北川にも詳しい。
「実は、明治時代の例のかわら版によるとさ、明治十一年に北川に入っていた外国人がいるという話なんだよ」
その自称郷土歴史研究家は言った。
「え?」
健治は驚いた。北川の閉鎖性は有名で、北川に入った者で帰った者はいない、とまで書かれた文献すらある。何らかの公式な用件があるときでさえ、役人を北川の集落に入れようとせず、川島家の誰かが使いとして里まで降りてきたという。必要生活物資も下の町まで最低限の物々交換をするためにおりてきた、と書いてあるだけだ。かなり、閉鎖的だったことがわかる。意外にも富山県に「筑前の国には魔界がある」という伝説が存在した。その伝説によれば、筑前の国の北西付近の山の中に魔界があり、入ってきた人間を片っ端から捕らえては食っている、という話だ。勿論、信憑性はないが筑前の北西部ならばF市付近であり、北川の事を指しているのではないか、というのが郷土歴史研究家の間で専ら評判である。もし、北川のことを指しているとすれば、越中の薬売りの間にさえ北川のことが伝わっていたということになる。明治十一年とはまだ北川は自治組織をもっていた頃なのだ。そこに、入っていく外国人がいるとは思いもよらなかった。最も、明治維新以降はF県のお役人は幾度となく北川の川島家のもとに説得の為通っていたらしい。明治維新以降は徐々に北川も時代の波に逆らえず、解放に向ったというのも、また郷土歴史研究家の間で最近定説になりつつある。
「チモシイ・クラインと、当時のかわら版に書いてあった。職業は建築技師らしい。さすがに、F県のお役人たちはすでに北川に出入りしていたらしいけど、一般人で入ろうと思った奴はいなかったらしい。だから、かわら版も取り上げたんだろうけど、実際彼は普通に帰ってきた、と後のかわら版に書いている。しかも、かわら版が取材した時に『キタガワのカワジマの家にサインを残してきた』と語ったそうだ」
チモシイ・クライン――現代風に書くとティモシー・クラインだろうか。おそらく綴りはTimothy Kleinだろう。その彼は、普通に帰ってきた…それも、明治十一年に。しかも、彼は帰ってきたときに意味不明なことを言っている。北川の川島の家にサインを残してきた、と。クラインは川島藤十郎と会ったのだろうか。そして、サインを残してきたとは、どういう意味だろうか。
「明治十一年って、北川自治崩壊と言われている年の三年前ですよね?ということは、ティモシー・クライン氏が崩壊の一端を担っている事と…?」
健治は誰にでも浮かんでくる疑問を呈した。自称郷土歴史研究家は頷き、「わしは、そう睨んどる」と言って、再び大きく頷いた。

「ああ、悔しい」
と言うと同時に、聖は鉄棒の前に座り込んだ。一セットマッチの試合は、デュースにつぐデュースの末、桐子が勝ったのだ。やはり、最後を決めたのは桐子の強烈スマッシュだった。片や桐子もさすがに座り込まないが、肩で息している。
「大体、せこいよ下から打つとか」
肩で息をしながら、桐子は悪態をついた。最初余りにもサーブが入らなかった聖は振り上げずに下からサーブを打つ作戦に切り替えたのだ。いくら児童公園の一番低い鉄棒とは言え、日頃使っているネットより高いため、聖はそういう作戦に出たのだ。逆に、いつも通りサーブをしていた桐子の方がフォルトが相次いだ。
「仕方ないじゃん、この鉄棒はネットより高いんだからさ」
と言って、聖は座ったままポンポンと隣の鉄棒を叩いた。
「言い訳はともかく、ジュース買ってきてよ」
ようやく、息が落ち着いてきた桐子は言った。
「は、何の話?」
聖は聞き返した。負けたらジュースを奢るなんていう話はしていない。
「勝者にジュースぐらい奢るべきじゃない?」
「敗者に勝者が恵んであげるのが、本来あるべき姿じゃないの?」
しばらく、押し問答していたが「可憐な女の子に奢らせる気?」という桐子の一言が効いたのか、結局聖がジュースを買いに行く羽目になった。北川においてジュースの自動販売機があるところなんて、一ヶ所しかない。タバコ屋の前に自動販売機が何台か並んでいるのだが、児童公園からだとそこそこ遠い。桐子が歩きたくないのも、よくわかる。
 かと言って去り際に「走ってきてよー」と桐子に言われても、走る気なぞ殊更ない聖はテクテクと歩いていた。ふと、聖はタバコ屋よりも自分の家に引き返した方が早いことに気付いた。もっとも、今から家に帰ってもジュースがあるとは到底思えない。麦茶程度はあるだろうが、だからといって麦茶とコップを持ってテクテクと公園に戻る姿を想像しただけでも間抜けだ。そこまで考えた時に、ある名案が閃いた。桐子を自分の家に連れて行けばいいのだ。親も「彼女作れ、作れ」やたらとうるさいので、親を黙らせるにも役に立つ。そういう一石二鳥の名案を思いついた聖は、その場で回り右して児童公園に戻り始めた。

「あれ、もう帰ってきたの?」
桐子はラケットを立てかけて、公園のベンチに座っていた。
「いや、一つ提案が」
と言って、早速桐子を自分が閃いた名案を桐子に話す。
「ただ、親に『彼女連れて来い』とかせっつかれてるだけじゃないの?」
桐子にも、聖の裏の魂胆は丸見えだったようだ。聖は、あれポーカーフェイスはいつの間にこんなに下手になっているんだろう、と思いつつ、嘘をつきとおせる自信もなかったので、肯定した。裏事情を話されて同情されたのか、それとも飲み水への欲求が抑えられなくなったのかは不明だが、結局桐子は聖の意見に従った。
 児童公園を出る頃には、すでに暗くなり始めていた。薄暗い夜道を運動後のせいか、普段よりもボリュームを上げて二人は喋り始めた。
「でも、私はあんたの彼女になる気はないわよ」
バスの中では「早坂君」だったのに、今では「あんた」扱いだ。最も、高校時代から時と場合によっては「はやさか!」ぐらい怒鳴れる女傑ではあったが。
「へー。あれ、高校時代、匿名の手紙を送ってきたのは誰だったかなあ…、確かイニシャルがT.K.って書いてあった気が…」
「ストップ!それ以上、言わないで」
聖が負けたお返しとばかりに切り札を出したところで、桐子が大声で遮った。
「おいおい、都合が悪くなったら遮るのはせこいんじゃない?」
聖は不平を言った。
「じゃあ、気付いたいたわけ?」
桐子は聖の不平無視して訊いた。
「そりゃね、その当時T.K.なんていう苗字の女子は学年に大目に見ても三人しかいなかったしね」
本当である。北川高校は県立には珍しくクラス数が少なく、三クラスしかない。それも、「ち」で始まる名前をchiではなくtiで解釈したのが一人、英語の名前→苗字表記ではなく、苗字→名前表記で解釈したのが一人だ。事実、川島桐子以外にいなかったと解釈するのが正しい。
「じゃ、気付いていて無視していたわけ?」
それを問われると聖としても痛い。その手紙は高三の五月頃、つまり例の発砲事件があった頃に届いたのだ。おそらく、桐子は雰囲気で玲奈と破局したと見るなり――本人達以外は玲奈と聖がきょうだいだった、ということは知らない――送ったのだろうが、その頃の聖だって、そんなものをまともに相手できる精神状態ではなかった。表面上は何気ないように振舞っていたが。そこが、事件後の対応として玲奈との最大の違う点だと聖は思っている。
「まあねえ」
「さいあくー」
なんて言い合っている間に、二人は聖の家の前についていた。早坂家の玄関前にはサークルの先輩・江川健治が立っていた。

「え、え、江川さん。な、な何やってるんですか?」
さすが、高校時代は玲奈と並んでクールカップルなんて言われた聖だが、あまりの予想外の展開にさすがに声が裏返っている。
「いやー、インターホン押しても誰もいなかったから、前で待たせてもらったんだよ」
当の健治はまるでたこ焼きを売っていたから買ったのだ、とも言いたげな口調だ。さらには、口笛まで吹いている。しかも「アジアの純真」。はっきり言って、古い。そんなもの口を悪くすれば、前世紀に流行ったものだ。今は二十一世紀だ。
「っていうか、何で北川にいるんですか?」
聖は当然の疑問を呈した。隣にいた桐子は開いた口がふさがらない、とはこのことかと思わせるような様子である。
「ほら、例の奴だよ。北川の歴史」
そういわれて、聖はようやっと思い出した。この先輩はこの辺境の地・北川について調べている郷土歴史家なのだ。今までも、しばしばと北川に来ては怪しい調査をしたついでに、そのたびに聖の家に寄っている。
「まだ、調べてるんですか?何か、わかりました?」
勿論、聖はお世辞で聞いたのだ。聖は門を開けて、二人を中に促した。さすが、田舎北川で、最近の住宅に比べて庭も広い。もっとも、そこを有効活用しているわけでもなく、ただいい加減にあまり大きくない木などが植えてある。
「あんまり、成果なし。早坂君にも一応聞いておくけど、ティモシー・クラインって知ってる?」
「知りませんけど、歌手かなんかですか?」
聖は隣の桐子と顔を見合わせることもなく、即答した。聖も、いい加減冷たい麦茶が欲しくなっていたのだ。
「まあ、カルバン・クラインっていうアメリカのファッションデザイナーがいるけどさ。ところでさ、訊くけど桐子ちゃんと何で一緒にいるわけ?キミ達って付き合っていたりしてたわけ?」
聖たちを見たとき、普通の大学生なら最初にその疑問を呈しそうだが、この先輩はやはりどこか抜けている。
「そう言う誤解はしないで欲しいですねえ。僕は彼女と同郷ですからね、何せ。まあ、いわゆる同郷のよしみって奴で」
聖は我ながら意味不明なことを言っているなあ、と思いながら自宅の玄関を開けた。健治が言ったとおり、本当に誰もいなかったようだ。
「そう言う誤解は、彼に迷惑ですよお」
と、お決まりの科白は意外にも桐子が言った。こう言う科白は普通、男が言うのじゃないかと言う、自責の念もあったが、聖は二人をリビングに通した。
「っていうことは、桐子ちゃんも北川出身なんだ」
健治は感心したように言った。
「ええ、そうですけど」
さっきまでの大声はどこに言ったのか、健治の気合に押されたのか桐子は随分小声になっている。
 三人がそれぞれの飲み物――運動後の二人は冷たい麦茶を、寒空の中待っていた健治はホットコーヒーを――を飲み干したところで、玄関の鍵が回る音が響いた。
 二人が「お邪魔しています」と言う前に、リビングに入ってくるなり、聖の母は言ってのけた。
「あら、江川君と桐子ちゃんじゃない。桐子ちゃん、久しぶりねえ。うちの聖は大学でうまくやってる?」
聖は桐子を母が知っているとは思っていなかった。冷静に考えたら、聖と桐子が小学校から数えてすでに五回以上同じクラスになったことがあるのを、忘れていた。こうして、聖発案の「彼女をつくりなさい」対策は失敗に終わったのだ。

 あの失敗した時の聖の苦笑い、が忘れられない。桐子の心底嬉しそうな笑顔が忘れられない…。玲奈は思わず、二階の自分の部屋に置いてある机に突っ伏した。聖があんなに喜怒哀楽を素直に示した事があっただろうか。あの発砲事件のさなかすらあれだけ平常心を失わなかった男が。あの発砲事件のさなか、玲奈は幾度となく冷静さをなくしていた。「クール・レナ」と友達から皮肉に言われた言葉も、当時は嬉しかった。それが、東玲奈の全てであったと思っていたのだ。ところが、あの事件で決定的に聖との差を見せ付けられてしまった。しかも、すべての事次第が終わったあと、けろっとした顔で学校に通っていたあの男が、川島桐子ごときとのテニスをしているのがそんなに面白いのか?川島桐子…玲奈が高校時代一番親しかった友人なのだ。必然的に、桐子と聖の仲もそこそこ良かった。しばし、三人でつるんだ事もある。その三人のうち、二人は現役でK大学に受かり、一人は浪人生活を続けている…。玲奈は、ここで思考を停止した。このままでは、自分がますます冷静さを失いそうで怖い。「クール・レナ」の代名詞の崩壊を思い知らされた。そもそも、公園までのどうやって行ったか覚えていない時点で失格なのだ。これで、高校時代に培ったプライドはすべて消え去った。あとは、残っているものは何もない。
 そんな時、外から桐子の声が聞こえてきた気がした。気のせいだと思いながら、二階にある自室から窓の外を見ると、前の道路を聖と桐子が楽しそうに並んで歩いていた。桐子が何か叫んでいるが、聞こえない。たとえ、聞こえたとしても聞かない。そして、二人は笑いながら聖の家の方向に消えていった。

Chapter 3 事件は一通の手紙からはじまる

 四月も下旬になったある日、川島桐子が大学に行こうと家を出たとき、覗いたポストの中に自分宛ての一通の封筒が届けられているのを発見した。左隅にはってある百二十円分の切手はその封筒がそれなりの重さを持っていることを示している。
「F県F市S区北川1丁目3番21−2

 川島桐子 様」
とだけワープロで打たれたとおぼしきゴシック体で書いてあり、裏をみるとこれまたゴシック体で「アワガティック」との名が刻まれていた。さらに、切手の下には手書きで「親展」と書いてあった。封筒の外側にしるされた文字はそれだけだ。〆の文字すらない。なかなかの達筆な字だ。消印はF中央。この辺り一帯まで、F中央郵便局の管轄なのだ。消印の日付を見ても、今日出されたことは本当のようだ。
 どことなく、嫌な感じのする封筒だ。このまま、開けないという手もあったが、何せわざわざ手書きで「親展」とまで書いてあった封筒を開けないのも気がひける。バスの中で読もうと鞄の中に入れた。
 バスに乗り、後部の方の座席に座ると、右手で封筒の入口を破った。そのまま、ひっくり返す。紙がかさばる音がした。一枚の折りたたまれた手紙と、新聞紙をコピーしたものと思われる紙が膝の上に置いてある荷物の上に落ちてきた。恐る恐る、折りたたまれた手紙を開く。再び、中身はワープロだった。
「桜咲くこの春、このたび大学2年生に進学され、順風満帆なキャンパスライフを送っていることかと存じます。
 この度、わたしがあなたに忠告したい事がありまして、こうして筆を取っております。とはいいますのも、あなたの命が危ないことを教えしたいと思ったからであります。
 ところで、北川伝説というのはご存知でしょうか?北川に古くから伝わる伝説で、北川で、イニシャルがT.K.の人物が4年ごとに何らかの理由で亡くなっているのです。信じられないかも知れませんが、本当です。以下がそのリストです

1988年 甲斐正…ダムで転落死
1992年 木下貴子…自動車で事故死
1996年 工藤隆史…交通事故死
2000年 近藤朋…ダムで転落死
2004年

信じられないかも知れませんが、本当です。その証拠に新聞記事を送ります」

 T.K.…どこかで、聞いたことがあるイニシャルだ…。桐子は思った。川島桐子Toko Kawajima、つまり桐子のイニシャルだ。まさか、この人物は2004年の今年、自分が殺されるとでもいうのだろうか?
 聖だったら、笑い飛ばしそうな話だ。だけど、桐子に笑えない。桐子は子供の頃から霊感は強いのだ。何か、嫌な感じがする。思わず、後ろを振り向いたが最後尾座席なのに誰もいるはずはない。体のどこかが反応してしまうT.K.というイニシャル。自分のイニシャルだからだろうか?日本のおいて、決して少ないイニシャルではない。例えば、高校の時の物理教師のイニシャルがT.K.だった。その物理教師が、返却するプリントなどにサインしたのがT.K.だった。だが、その時は別段どうと思わなかったのだ。ところが、今回は違う。何か、自分の中から湧き出しているような感じがするのだ。
 そこまで考えた時、バスはターミナル駅に入った。大学に行く為にはここから乗り換えになる。バスを降りると、肩に疲労感とともに冷気が感じられてぞっとした。バス内のエアコンの排出風があたっていただけだったのだが、それと同時に同封されていた新聞記事なぞ、とうに読む気をなくしていた。

「北川は川島家の神官政治だったんですかあ?」
健治は素っ頓狂な声を上げた。健治は今日も別の郷土歴史研究家とあっていた。この人は、北川の首領であった川島家を中心に調べている人だ。相変わらず、健治とは五十歳以上都市が離れていた。
「いや、『大宰府風俗伝』にそう書いてあったんだよ」
「えー!?あの幻の『大宰府風俗伝』が手に入ったんですか?」
『大宰府風俗伝』とは、当時の筑前付近で流行っていた噂話を書いてある貴重な本だ。なかなか、手に入らない本で、北川研究家の垂涎の的だ。
「あれ?江川君のところには、会報は届いてないの?」
会報とは、北川歴史研究会というところが出している会報のことだ。健治は田舎からF市に出てきたため、F市で一人暮らしをしている。しかし、ここ数日友達の家を渡り歩いていた為、自分の家には帰ってなかったのだ。
「はあ…、まあ色々ありまして、実家の方に帰ってたんです。今日F市に戻ってきた所なんで、アパートの方は数日帰ってないんで…」
さすがに、友達の所を渡り歩いていたとは言えない。仕方ないので、適当に誤魔化す事にした。
「ああ、それは残念だね。今月の会報に『大宰府風俗伝』の一部コピーが載っていたんだよ。北川に関することだけど」
事務所もようやく手に入れたらしい。健治は禿げた七十歳近い会長の顔を思い浮かべた。そういえば、あの会長は『大宰府風俗伝』を手に入れたら会報にのせると語っていた。
「知らなかった…、で、どんな事が書いてあったんですか?」
「ええと、まず順序良く話すと北川の政治体制は川島家による神官政治だった。それから、川島家の者はその文献によれば人間ではない、と書いてあったらしいね」
「人間ではない?」
「『人間では非ず。』とまで書いてあったらしいから。確か…、人が見ている前で、全く手にも触れてないのに花瓶を浮かせたり、掛け軸を動かしたりしたらしい」
「それじゃ、単なる超能力者じゃないですか?」
「まあ、ものの喩えだろうね。これからの北川研究は、この話が何を示しているかを調べるのが中心になるだろうな」
そう言って、老人は話を切った。

 川島桐子は大学方面行きバスに乗り込んだが、車内はそこそこ込んでいた。仕方なく、車内の前の方に立つ。桐子はぼんやりとフロントガラスを見ていた。正確には、フロントガラスを通して外側の風景を見ていたのだが、視線は一定しなかった。車内のあちらこちらを見ているうちに、ある一点に視線が集中した。運転手のネームプレートだ。前の方に張ってある「○○は安全運転につとめてまいります」とか書いてあるプラスチックの板。最初は、自分でも何でそれを見ているのかわからなかった。しかし、しばらくみているうちにようやく合点がいった。運転手の名前が「古賀統一郎」なのだ。イニシャルがT.K.。2004年にT.K.は北川で殺される…、そう小声で呟いた。
 その時、向こうから、反対車線を一台の乗用車が走ってきていた。ふと、桐子はあの乗用車がこちら側の車線に飛び出して、バスと正面衝突するという考えが浮かんだ。そして、その通りになった。乗用車は車線をはみだした。バスの運転手も慌てて急ブレーキを踏んだ。バスの中の乗客が悲鳴をあげ、倒れる。そして、一台の乗用車とバスは正面衝突して止まった。頭の中で描いた光景どおりだった。
 恐慌状態に陥った乗客が、後のドアを壊して一気に道路になだれ込んだ。我に返った桐子も、逃げようとした。桐子は一瞬運転席側を振り返った。あとから考えても、自分でも何故そうしたかはわからない。ただ、振り向いたのだ。運転席は完全に潰れていた。そして、その中に運転手――古賀統一郎氏――が変わり果てた姿で死んでいるのを桐子は確認した。

「川島の者は魔物なり。Fの城にて、藤吉殿とF藩が殿、会いにけり。ご自分の手にも触れずに意のままに掛け軸を操り候う。あたりの人が驚くつるに、川島藤吉殿は平然とした顔なりにける。殿『さらに大きなものを動かせはれるや』と問いつるに、藤十郎殿は『動かせてみませう』といいはべり、あたりにいつる人みな浮かせてみせたまふ。
 殿『いかにしてできはべる』と問いにけるに、藤吉殿『わが身に命を下すので候』と答え候。殿大変おどろかりつるに『それのみや』と問ふと、藤十郎殿『わが川島家のもののみ可なる。我が身にくだせたまふ命は川島家のものには、七代末まで掟なり候ふ。また、我が発する令、北川のものには掟なり』と答えし。まるで、禅問答の如し」
会報に載っていたのはわずかこれだけだった。最後に、作者が禅問答の如しと書いた理由もよくわかる。一読しても意味不明だ。それにしても、酷い文章だ。風俗本だからこそこう言う文体なのだろうが、現代人からすると読みにくいの越した事はない。
 さらに会報には、会長の考察がついていた。
「これらが一体全体、何をあらわしているのかはわからない。しかし、川島家はこの魔術らしきものを使って、北川を治めていたのではないか、という推論が成り立つ。つまり、支配者を神と同一化させるという戦前の日本的な支配方法だ」
会長の考察はともかく、この貴重な手がかりから様々のことがわかることもいくかある。川島藤吉がF藩の殿様と、面会していた事。そこで、超能力――らしきもの――を発揮した事。また、川島家が北川でかなりの権力を握っていた事もわかる。藤吉とは、藤十郎の一つ前の先代だ。藤十郎は明治になって川島家の家長になったといわれている。その超能力とやらを発するためには、『我が身に命を下す』らしい。意味不明だ。しかも、それは七代末まで絶対らしい。意味不明だ。健治は会報を放り投げた。長年期待していた『大宰府風俗伝』に大したことが書いてくがっかりしたのだ。こんな、超能力まがいのものを書いているとは思ってもいなかった。もっとも、風俗本はそういうバチモノの方が喜ばれるのだろう。結局、『ご自分の手にも触れずに意のままに掛け軸を操り候う』がどういう意味を指しているのかが、今後の鍵になってくるのだろう。
 そう言って、健治は四日降りに自分の布団に潜り込んだ。その頃、藤十郎の命が百年の時を経て、復活し始めている事など知らずに…。

昼夜の惨事、バスと乗用車が正面衝突

F市H区の路上で、バスと乗用車が正面衝突した。この事故により、自動車を運転していた青柳英治さん(54)=会社役員=とバスを運転していた古賀統一郎さん(36)が死亡し、バスの乗客十二名がかすり傷などの軽傷をおった。警察は目撃者などからの情報などにより、青柳さんが何らかの理由でハンドル操作を誤ったと見て、捜査を調べている。
――二〇〇四年四月××日付 N新聞F版三十五面

 結局、桐子は大した怪我する事もなく、ガラスの破片で腕をちょっと切っただけの怪我だった。病院にいくまでもないと強硬にことわったのだ。しかし、診断書を書くために桐子を病院に連れて行かなければならない、と警察官にこれまた強硬に主張した。仕方なく、当日は応急処置を施し、診断書を書くために事故の翌日に再び病院に出かけることになった。
 診断をした年寄りの医師はやる気無さそうに、桐子の腕を見て、診断書にペンを走らせた。桐子が何気なく目をやるとその医者のネームプレートには「木島智明」の文字が見えた。それと、同時に胸ポケットにあったライターが見えた。机の上の消毒用のアルコールが見えた。
 これを見て、桐子はああまただ、という感触におそわれた。昨日のバスの事故で、得た感触そのままだった。このときもまた、ああこの医者は焼け死ぬな、とだけ桐子は思った。医者の不養生、という考えさえ浮かばなかった。そして、そのあと予想通りの展開になった。ライターは自分でいきなり点火した。火はそのまま医者の着ている白衣に燃え移り、医者は慌てて白衣を脱いだ。そして、火の付いた白衣は机の上の消毒用アルコールに燃え移った。桐子は何の考えも浮かばずに廊下に出た。出る際、同室にいた看護婦があわてて消火器を持ってきているのが見えた。いくらやったとしても、無駄なのだ。T.K.は死ぬに決まっている。

 川島藤十郎。この人物は自治組織の役割を担っていた川島家の最後の家長だ。しかし、その多くは余りわかっていない。教養は多くあったらしく、幕末にF藩の藩校に通っていたと言う話だ。そこで、洋学の研究をしたという。そして、明治二年に先代・藤吉の死亡で、家長に就任した。それ以降、F市と積極的に交渉を行ったという。ただ、先代の藤吉と違う所は、ほとんど超能力を披露しなかった事だ。『太宰府風俗伝』とは違って、明治時代に発行されたかわら版にはほとんど、そういう描写はなかった。さらには、藤十郎自身も自治支配には穏健派だった様子だ。
 この人物が、最終的にどうなったかはよくわかっていない。が、一説によると、北川が自治をやめたあと、絶対に北川から出ようとしなかったとの話だ。

 聖は北川に向うバスの中で久しぶりに桐子と会った。ここ数日、桐子はサークルにも顔を出していなかったので、会う機会がなかったのだ。
「やあ、お久しぶり。なんか、元気ないね」
実際、数日振りに会う桐子の顔から覇気が感じられない。
「ああ、早坂君か」
桐子は一瞬びっくりしたような表情を見せたが、相手が聖だとわかると元の様子に戻ってしまった。なし崩し的に二人は並んで座る。
「あのさあ、早坂君。超能力って信じる?」
バスが発車すると同時に、桐子はこれまた覇気のない声で言った。
「超能力?ESPとか?」
聖は今度こそびっくりした。超能力なんて桐子が興味あったとは意外だ。そう言えば、桐子は昔「わたしって、結構霊感強いの」と聖に語ったことがあったような気がした。が、いずれにせよ、覚えていない。大体、元気がないことと超能力の因果関係がわからない。お化けでも家の中に出たのだろうか?
「そう。予知とか」
まあ、色々と推測していても始まらない、と思った聖は自分の考えを素直に述べることにした。
「科学的な根拠がないものを肯定はしないけど、かといって全面否定はしないよ。現在、オカルトとされているものでも、将来的には科学的根拠がつくかもしれないからね。ただ、現時点では科学的根拠のないものを肯定はしない。まあ、限りなく黒に近いグレーみたいな」
聖は珍しく本音を語ったつもりだったが、桐子からは「ふうん」という気の無さそうな返事を返されてしまった。聖としては「限りなく黒に近いグレー」の元ネタを突っ込んでくれなかった事の方が寂しかったのだが。最も、薬学部の桐子に答えを求めるのが間違えだったかもしれない、と思いつつ。その後、バスは二人をのせて彼らのホームグランドである北川に着いた。すでに、晴天だった空には、雲が立ち込め始めていた。

 健治は駄目もとで、超能力を調べてみる事にした。「ご自分の手にも触れずに意のままに掛け軸を操り候う。」の正体が、なんかの暗示ではないかという意見が多くの北川研究家の声だったが、健治は敢えて何らかのトリックではないかと主張したのだ。風俗本であるから、誇張表現を使うことはあっても、メタファーを使う事はないはずだ、と思ったからだ。そう主張した健治の意見も、おじさまがたにはメタファーの意味がわからなかったらしく、誰一人としてまともに健治の意見を取り上げなかった。こうなったら、自分で調べるのみだ。超能力に見せかけたトリックというのは一杯あるだろう、という思惑があったのだ。
 しかし、いざ調べようとしてどこから調べればいいのかわからない。試しに、超能力本を数冊大学の図書館から借りてきてみたが、“どれもこれも超能力は絶対にある”と固い信念に満ちた人たちが書いた本だったため、全く参考にならなかった。
 ふと、健治はサークルの後輩の聖がミステリーについていつか語っていた事を思い出した。聖ならば、何か知っているかもしれない。健治はそう思った。明日、サークルで会ったら聞いてみよう、と健治は決心した。しかし、健治はここ数日桐子がサークルに来ていない事に気付いていなかった…。

Chapter 4  Love is blind

 このビルはもうかなり古い、最初に桐子が感じた感覚はそれだけだった。ここ数日、相次ぐ目の前のT.K.の死に神経が麻痺していた。さらには、常に誰かに見られている気がする。自己の統帥すらとれていない有様で、ふらふらと全然知らない所にいたりする。今回も、この例だった。ましてや、今日は雨だと言うのに、傘一つ持ってない。気を取り戻した桐子は、雨宿りの為にその古いビルに入った。案内板を見ると、最上階に喫茶店があるらしい。桐子は、そのままふらふたとエレベーターに乗った。最近には珍しく、いまだにエレベーターガールがいる。桐子は最近、人の名前を認識することをやめていた。ネームプレートを見て、またT.K.の人間と出くわすのではないかと、怖かったからだ。しかし、エレベーターガールの身長が予想以上に高く、小柄な桐子が振り向いた瞬間、ちょうど胸のネームプレートが見えてしまった。出た、川崎友香《かわさき・ともか》。T.K.だ。さらには、振り仮名まで振ってあった。振り仮名が降ってなかったら、桐子は「かわさきゆうか」で認識したであろう。しかし、振り仮名が降ってあった為、桐子はT.K.と認識してしまった。
 そう認識してしまったことが、すべての終わりだった。配線盤が今にも、ショートしそうな状況になっていることに気付いたのだ。当然、視覚的にわかったわけではない。感覚としてわかったのだ。そして、適当な階――降りて、回数表示を見たら四階だった――で降りた。その直後に配線盤がショートしたことがわかった。エレベーターのワイヤーを制御していたモーターは、制御できなくなりエレベータは最下位層まで落下していった。古いエレベーターの緊急装置が働いたが、すでにおそかった。
 最下位層で停まったエレベーターの中から感電死した女性が発見されたことを、桐子は翌日の新聞で知った。何とも、感慨が浮かばなかった。ただ、深い深い虚脱状態に陥っただけだ。翌日は、学校に行かなかった。

エレベータの安全確認が問題?エレベータガール死亡

F市のあるビルで、エレベータが転落し、中でエレベータガールをしていた川崎友香さん(24)が感電死しているのが発見された。配線盤がショートしているのが原因と見られている。F県警はエレベータを管理していたS警備と、エレベータを製造したHエレベータに再点検を要求した。Hエレベータは社内に事故検討委員会を設置した。
二〇〇四年四月××日N新聞F版

「やあ、早坂君。ちょっと、話があるんだけど」
聖がテニスコートの片隅でヒンギスの真似をしてテニスボールでお手玉をやっていると、健治が声を掛けてきた。どうでもいいことを付け加えると、ヒンギスがブラウとの試合が中断している間、これをやって観客を沸かせたという。おまけに、日本お手玉の会から認定書が送られたそうだ。
「ちょっと、待ってください。今、三十回を越えた所なんだから」
と、言った端から失敗してしまった。きっと、先輩が声をかけてきたせいだろう、聖はそう思うことにして、ようやく健治のほうを振り向いた。ついでに、今の三十二回は聖の新記録だ。
「器用だね、僕不器用だから、お手玉なんて出来ないよ」
と言って、健治は手許に転がっていたボールを二個つかむと、十回ほどでお手玉をしたが見事に失敗した。聖は三個でやって三十二回だから雲泥の差だ。
「で、話はなんです?」
「あのさあ、超能力って詳しい?」
「はあ?江川さんも超能力に興味を持っているんですか?」
聖は呆れた。最近、自分の周りでは超能力ブームなのだろうか。ユリゲラーが何かテレビでやったのだろうか?
「『も』って、何?」
健治は当然の疑問を呈した。
「いや、川島の奴も最近、同じような事を聞いてきたのだ」
と言って、聖はテニスコートを見回した。今日も、桐子は来ていない様だ。
「川島…って、ええと、ああ桐子ちゃんか。へえ、そうなんだ。それは君が超能力に詳しい、と評判だからじゃないの?」
健治は大抵、川島桐子のことを馴れ馴れしく「桐子ちゃん」と呼ぶから、桐子の苗字を忘れていたらしい。
「え?いつ、そんな評判立ちました?オレ、別に超能力には詳しくないですよ」
本当だ。超能力の「ち」の字も知らない。ESPとかいう単語を知っているだけだ。しかし、この答えに一番驚いたのは健治のようだった。
「え?でも、いつかミステリー云々について語ってなかったっけ?」
聖は一瞬でその謎が氷解した。よくある笑い話だ。同様の話は綾辻行人『時計館の殺人』にもある。そんなことはどうでもよくて、健治に「ミステリー」とは「怪奇現象」の方じゃなくて「推理小説」の方だと説明する。
「へえ、そりゃ知らなかったなあ…。早坂君が小説を読むとは知らなかったなあ…」
「まあ、一応趣味で、色々な小説は読んでいますよ、推理小説を初めとして」
「へえ、そうなんだ。まあ、いいや。ああ、あと今度お邪魔させてもらうから。よろしく、じゃあね」
と言って、余りの展開の速さに呆気に取られている聖を残して健治はテニスコートの隅にある建物の方に向った。

 桐子は家から一歩も出る気をなくしていた。街を出歩けば、どこにT.K.の名前の持ち主と出会うかわかったものではない。いかなる、どういう理由か知らないが、桐子がT.K.の名前の持ち主と出会うと、その人物は何らかの理由で不慮の死を遂げてしまうのだ。自分の名前を認識する事からして怖い。怖くて、表に自分の名前の書いてあるノートを見ることすら出来ないのだ。さらには、ここ数日ずっと誰かに見られているような気がしていた。ふと、見られているような気がして後ろを振り向くと、怪しそうな人は一人もいない、なんていうこともよくある。謎のT.K.の死に加えてストーカーまで加わったのだ。桐子はストーカーがいるのは神経過敏により被害妄想だと思い込もうとした。しかし、やはり誰からか見られているような気がするのだ。
 何も、出きるわけがない。今、桐子にできることといったらベッドに突っ伏して泣くしかない。あの伝説は本当だったのだろうか。次々とT.K.を殺していく誰か。その誰かは誰も気付かない所から、桐子のことを狙っているのだろうか。そう思うと、怖くて眠れない。実際ここ数日、桐子は睡眠不足に陥っていた。顔色は大分悪くなっており、心持ちか痩せた気がする。ダイエットだ、何だと喜んでいる場合ではない。精神状態は、最悪。これが、今の桐子を表す全ての言葉だった。
 そんな桐子の耳に、耳障りな電子音が届いた。ここ数日、そんなものすら無視していた。今度も切ろうと携帯電話を持ち上げた時、携帯電話のディスプレイが目に入った。「早坂聖」の文字。一瞬、切るのが躊躇させられた。しかし、思い直すと、今度は携帯の電源ごと切った。

 健治は今更になって愕然とさせられた。何故、今まで気付かなかったのだろうか。その原因は、桐子のことをいつも「桐子ちゃん」と読んでいたことぐらい自分でもわかっているのだが。北川の首領を務めていたという川島家。その子孫が何故、現代まで生きている考えを忘れていたのだろうか。しかも、こんな身近にいたのに。健治は自分の愚かさを呪いたくなった。
 当然ながら、本当に川島桐子が川島藤十郎の子孫という根拠はない。しかし、北川の町に何度も足を運んでいるものからして、北川に川島という苗字の家が多いとは思えない。せめて、傍系の子孫であったりしたら、川島家の伝承などを教えてもらえるんじゃないか…、そういう淡い期待を抱いて、携帯電話を手にとった。が、番号がわからない。昔、サークルで名簿をつくったことがあったが、そんなものどこかに紛失している。仕方なく、メモリの中に登録してある聖に電話をかける。
「江川ですけど」
「ああ、江川さん」
聖の声は日頃よりも若干上ずっている。気のせいだろうか。
「あのさあ、桐子ちゃんの携帯の電話番号知らない?」
「その桐子ですけど…。あいつ、今電源を切ってるみたいで…」
「え?ふーん、そうなんだ。まあ、電話番号教えてよ」
「というか、あいつに切られたんですよ、電話」
聖の声が日頃よりも上ずっている理由がようやくわかった。
「どうしたの?ふられたの?」
健治は未だに、聖と桐子が非日常世界に飛び込んでいることに気付いていなかった。
「そう言う問題じゃないですよ。川島と同じ学部の奴から聞いたんですけど、最近、あいつ、大学にも来てないんですよ!」
かつては、京大の教授が授業に出てくれといって、生徒の家を一軒一軒まわったのははるか昔の話だ。今の時代、授業の出席率は高い。
「風邪か、なんかひいてるんじゃないの?」
健治はあくまでも楽観的な意見を言った。
「でも、あいつが携帯を切るなんて…、ともかく今からあいつの家に行ってみたいと思ってます」
「ちょっと、まった。僕も行くよ」
健治は同伴を表明した。ただ今回、川島家に行けるチャンスを逃したら、いつ行けるかわからない。ただ、それだけの理由だ。聖と比べてもどうも切迫感がない。
「え?先輩も来るんですか?」
「来る来る。今から、タクシー飛ばして北川まで行くからさ、北川のバス停のところでまっててくれる?」
それだけをいい放つと、聖の返事を待たずに健治は携帯電話を切った。大慌てで用意しながら、あの聖らしくない落ち着きの無さは何なのだろう、と思いつつ。

 健治はタクシーで来る、といいつつバスできた。貧乏学生には、運賃が巨額な負担になるであろうということはわかっていたが。最も、待ち合わせ場所を考えると最初からバスで来る予定だったみたいだ。しかし、今日は小雨がぱらついており、余り交通状態は良くない。聖はたっぷり一時間は待たされていた。すでに、上空が雲で覆われている事もあり、薄暗くなり始めていた。
 健治はバスを降りてくると開口一番、聖に言った。
「桐子ちゃんの家に直接行こう」
聖は無言で頷いた。聖も当然そのつもりだった。あの桐子の様子は普通ではない。出来る限り、早く行くべきだと思ったのだ。
 聖が先頭に立ちながら、早足で桐子の家に向う。桐子の家は、北川の一番奥――山側――にある。庭からは北川を一望できる景色を持っているが、そのかわり幾分不便なのが最大の欠点だが。
「あのさあ、桐子ちゃんの家の噂って何か知らない?」
 だらだらと続く坂道に早くもへばりぎみの健治が後から聖に聞いてきた。この先輩、これでも運動サークルかよ、と聖は心の中で毒づいた。軽口をいえる状況ではないし、まず聖はそういう精神状態ではない。
「ええと、あんまり聞いたことないです。あの家は、北川の町が一望できる絶好のロケーションにあるんですけどね、この通りダラダラと坂道が続いてますからね、やっかみ半分で『坂のはつる家』なんていわれてますけど、それぐらいですかね」
聖は質問だけに簡潔に答えた。北川で生まれ育った聖としては、この心臓破りの坂ぐらい問題なかったが、健治はもう限界のようだった。ああ、もう健治は駄目かな、と思ったときようやく桐子の家が見えてきた。

 ここ最近、玲奈はしばしば出かけていた。去年の自分と比べても、本当に活動的だなと感じる。親も、去年全く運動しなかったのが玲奈が体調を崩した原因と考えているらしく、受験生が普通に出歩いていても何も文句を言わない。だから、玲奈は自由に行動が出来た。
 それと同時に、玲奈は新しい喜びを発見していた。他人をつける、ということがこれほどまで難しいとは知らなかった。しかし、だからこそ得られる喜びというのがある。まあ、早い話ストーカー行為だが、玲奈には絶対に見つからない自信があった。だからこそ、積極的に関与しているのだ。

 聖が桐子の家の前に着いたとき、健治はもうバテバテになっているように見えたが、意外にタフだったらしく、座り込みはしなかった。聖は、そんな様子を横目で見ながら、呼び鈴を押した。
 誰も出ない。もう一度、呼び鈴を押した。わずかに、階段を人が降りてくる音がする。しばらくすると、桐子本人が玄関から顔を出した。桐子の顔を見たとき、聖は呆気に取られた。健治も同様に聖の横であんぐりと口をあけていた。それほど、桐子の姿はここ数日で変わっていた。頬はやせこけ、顔色は悪い。かつて、艶のある色合いをしたショートカットも今やぼさぼさだ。聖と児童公園でテニスをして、軽口の応酬をしていたとは思えない。桐子も、桐子で呼び鈴の押した主が聖だとは思わなかったらしく、桐子も少々驚く表情を見せた。それも、露骨にではない。予想外の訪問にちょっと驚いたという感じで、微笑んでいるのだ。その無理を作ったような微笑がますます痛々しい。
 しばらく、無言のまま時は過ぎたがそう言うわけにはいかない。
「川島…、大丈夫か?」
自分でも、大した事は言ってないな、と思いながら聖は言った。どう見ても、桐子の様子は大丈夫には見えない。
「あたし…?…勿論」
桐子の声がいやに弱々しい。今度こそ、本当に無理に作ったとおぼしき微笑みがますます痛々しい。聖はここでUターンして自分の家に帰りたかった。これ以上、痛々しい桐子の表情を見ることが出来なかった。でも、そうはいかない。それが、聖の使命なのだ。クールだけど、正義感にもえるのが早坂聖なのだ。そう自分に言い聞かせたのだ。われながら、こんな物に頼らないといけないないとは、情けない。
「大丈夫には見えないよ、どう見たって。何か、あったんじゃない?」
こっちも普通に見せているつもりなのだが、多分失敗しているだろう。聖の微笑みは桐子ほどとまでは言わずとも、かなり痛々しく見えただろう。隣の健治は一言もさっきから言葉を発していない。
「別に…ない」
表情からして隠そうとしていたのがバレバレだった。ここは何としてでも、桐子を救い出せ、早坂聖。自分で、自分に言い聞かせないと、言葉が発する事の出来ない自分が嫌だった。
「何かあるんだろう?オブザーバーに江川さんもいるし」
もっとも、さっきからあんぐりと口を開けっ放しなので、オブザーバーどころか番犬にも成りそうにない。きっと、今の健治ならば泥棒が前を通っても気付かないに違いない。
 桐子はしばらく逡巡していようだったが、決心するように二人を中に招き入れた。

「実は、一週間ぐらい前に脅迫状が届いて…」
桐子は二人を自室に招き入れると、二人が座るのをまたずに、唐突に語りだした。
「脅迫状?」
脅迫状か…、まあ比較的信心深い桐子なら信じかねない。玲奈あたりなら、紙飛行機にでもしてゴミ箱に直通だろう。まあ、確かに川島家はこの辺りに多くの土地を持っているし、資産家と言えば資産家だ。そう言えば、東家も比較的資産家だった。どうやら、女友達の選別眼だけは昔から良かったようだ。我ながら、不届きな事を考えているなあ、という自覚は当然聖にもあったが、これぐらいどうでもいい事を考えていないと、トラブルシューターは勤まらない。ふと、いつの間にか聖は自分がこの事件の幕引きをやってみせると、決心していた。
 聖の反駁に桐子は少しだけ頷くと、机の引き出しを開けた。女の子の机って、几帳面にどうでもいいものが並べてあるなあ…、と再びどうでもいいことを考える。聖がどうでもいいことを考え始めるのは、精神的重圧がかかってきた証拠だ。前回は無我夢中でやっていたのでそんなことは思いもよらなかったが、今回は自分で決めた目標に勝手にプレッシャーを与えられている。早く、この与太話を終わらせたい、聖は強く思った。桐子は机の引き出しから、一枚の封筒を取り出した。先ほどから、一言も喋っていない健治と一緒に覗く。この人は、今まで女の子の部屋に入ったことがないのかもしれない。この事件が終わったら、健治に彼女がいるか聞いてみようと、再びどうでもいいことを考えた。
 しかし、封筒の表書きを見た途端、そんなどうでもいい思いは拭き消えた。
「F県F市S区北川1丁目1番1−1

 川島桐子 様」
このワープロで打たれた表面《おもてめん》を見た瞬間、聖はこの表面をどこかで見たことがある、と思った。表面を見て、明らかにあるいくつかの違和感。消印を見ると、同じ市内に送っているのにも関わらず――しかもF市は日本でも有数の都会だ――、住所が県名から書いてあること。さらには、“一丁目”の場合、通常漢字変換した場合、圧倒的に‘1丁目’よりも‘一丁目’と変換される場合が多い。ところが、この住所は「1丁目」と全角のアラビア数字が使われていた。さらに、決定的なのが「川島桐子 様」である。基本的に、葉書作成ソフトにせよワープロソフトで手作りで書かれたのにせよ苗字と名前の間にスペースを入れてかかれれる事が多い。ところが、この川島桐子様は空けられていない。名前が四文字ならば開けられていないソフトならいくつか有るだろうが、絶対数は少ないだろう。
 封筒を裏にひっくり返す。脅迫状だから名前は書かれていないだろうと、思ったのだが、意外にも何か書かれていた。よく見ると、「アワガティック」の文字。AWAGATEICだろうか。いずれにせよ、こんな酔狂な名前を持つ人物なんぞ知らない。
 中を見る。中の文章はかなり平易に書かれている。「順風満帆なキャンパスライフを送っていることかと存じます」なんていう科白を見ていると、少なくともうちの大学に行っていない奴だろう。キャンパスライフなんていう言葉を使うのは、新入生ぐらいなものだろう。うちの大学はキャンパスがあちらこちらに散らばっているせいかは知らないが、慣習的にほとんどキャンパスという言葉を使わない。使うのは「オープンキャンパス」ぐらいだろう。しばらく読んでいるうちに、余りのくだらない内容に途中で読むのをやめた。随分、単純な脅迫状だ。こんな物に引っ掛かってしまう桐子が、今初めて可愛く思えた。そこに、不安そうにもじもじと立っている桐子を抱きしめたくなったが、さすがに健治がいる手前そんなことは出来ない。結局、聖はその封筒を家に持ち帰りたいと桐子に申し出て、許諾を得てから、桐子の家を引き上げていった。結局、健治はオブザーバー程度にすら役に立たなかったのだが、まあいい。桐子を元の桐子に戻す為に、この謎の脅迫状を送り主を絶対に見つけてやる。これが、かなり短絡的な事であることに気付くには、今日の聖はハイテンション過ぎた。恋は盲目、Love is blind.とはよく言ったものだ。

 聖が脅迫状を持って帰った後でも、桐子は全く気は晴れなかった。聖に話したことは、全体の十分の一にもならない。自分の周りで本当にT.K.が死んでいる事、なんて話したらどうせ馬鹿にされるだけだろう。現に脅迫状を見せたとき、聖はしばらく脅迫状とにらめっこしていたが、一度だけ桐子のほうを馬鹿にしたように見た。何で、こんな与太話を信じているんだ?と思ったに違いない。一瞬、T.K.の死について語ろうかと思ったがやめた。結局、あのクールな聖に馬鹿にされるのが落ちだからだ。一緒にいた健治なんて、全く訳に立ちそうにない。あたしは、どうすればいいんだろう、と桐子は再びベッドに突っ伏した。

Chapter 5 対決、でも戦いはまだ終わらない

 聖は桐子から預かった封筒を持って、自分の机に向った。机の隅に放り出してある今年貰ったばかりの年賀状の束をめくる。宛名を見ていると、ほとんどの人が「二丁目」までは漢字で書いてある。そんな中、漢字で書いていないのは…東玲奈のみ。「早坂 聖様」じゃなくて「早坂聖様」と4文字の間が等間隔で書いてある手紙…東玲奈のみ。さらに、表のゴシック体の文字も送られてきた年賀状と封筒は同じだった。四カ月も同じフォントを使っているかと言う疑問はあるが、「はがき作成ソフト」にテンプレートが記憶されている可能性は高い。だから、同じフォントを使う、という可能性だって十分に考えられたのだ。
 さらに、先ほど全てを見損ねていた中身を見る。ここに…、決定的なことが書いてあった。甲斐正。聖と玲奈の実の父親。このことを知っているのは玲奈しかいないだろう。すべての状況証拠は脅迫状の犯人は玲奈と語っていた。しかし、確信は得れない。が、聖は理性で考える前に、外に飛び出していた。

 玲奈にとって、脅迫状を送ったのは本当に出来心だったのだ。これを思いついたのは、たまたま玲奈の実父と桐子の苗字が同じだと言う事に気付いた事だ。同じT.K.。このことに気付いた時、玲奈はすでにパソコンに向っていた。そして、出来上がったのがあの杜撰な脅迫状なのだ。それもそのはず、既成のはがき・封筒作成ソフトで作ったからだ。差出人は匿名にしようかとも思ったが、KITAGAWAを引っくり返したアワガティクAWAGATIKで出す事にした。こっちの方が、土着の神からの脅迫状みたいでいい、と玲奈が思ったからだ。そして、ポストに投函した。
 そして、玲奈はその日から桐子の様子を出来る限り観察しはじめた。初めの方は桐子は何の変化もなく過ごしていた。ポストに投函してから一週間たっても、目立った変化はなかった。変化が出始めたのは、一週間後だった。桐子に何のきっかけがあったのかわからない。その日は、玲奈はバスを見送った所で尾行を辞めていたからだ。ただ、その日桐子が北川に帰ってきた時、不安げな表情であたりを見回していた。
 それから、桐子の衰弱振りは目を見張るものがあった。正直、これほどまで効果的だとは思わなかった。特にここ数日は、桐子は大学にも行かず、ずっと家の中に引きこもりっぱなしだった。玲奈も桐子の家の前で、ずっと桐子の出てくるのを待っていたが、なかなか出てこない。桐子はしばらくは立ち直る事は出来まい。思わず、玲奈は笑ってしまった。その原因を作ったのは自分なのだ。このまま永久に桐子が立ち直れなければいい、と思った。そうすれば、一年、二年と遅れていき玲奈は桐子と同じ学年になることが出来る。玲奈はその夜、久しぶりに勉強の為に机に向った。
 その翌日、いつも通り桐子の家の前で見張っていた玲奈は、坂道から聖が上ってきているのを見かけた。慌てて、玲奈は物陰に隠れた。聖たちが呼び鈴を押して出てきた桐子を、物陰からこっそり覗いた。桐子は、すでに以前とは別人のようだった。頬はやせこけ、顔色は悪かった。そして、髪にここ数日櫛すら通していないのもまるわかりだった。聖たちは呆気に取られている様子だったが、玲奈は狂喜した。これで、桐子はもう駄目だ。そういうふうに感じた玲奈は聖たちが帰るのを待たずに自分の家に引き上げた。そして、再び机に向った。この間まで、思い出せなかった単語がスラスラと読めた。

 聖は玲奈の家に向って、全速力で走っていた。道は体が自然に覚えていた。右、左と自然に足が出る。思わず聖はナイキのCMを思い出した。バルセロナのロナウジーニョが軽快なドリブルで街を駆け抜けていく。
 気付けば、聖は早くも玲奈の家の前に立っていた。そのまま、玲奈の家の呼び鈴を鳴らす。静かな住宅街に呼び鈴の音がこだました。
「はい」
そう、家の中からくぐもった声が聞こえた。声を聞いた途端から嫌な予感がしていたが、出てきたのは玲奈本人だった。家族不在はよかったのか、悪かったのか…、聖にはわからなかった。聖がただ一つわかったのは、予選ラウンド無しで決勝に臨まなければんらない事だ。ロナウジーニョだって、予選無しでいきなり欧州CLの決勝に出されたら困るだろう。聖は再び、自分がどうでもいい事を考えている事に気付いた。
 聖は玄関先にいる玲奈を見た。東家の庭は比較的広い。二人の距離は少なくめに見積もっても五メートルはある。聖は何も言えず、玲奈をただ睨みつけた。それだけしか、出来なかったのだ。しかし、今の玲奈はそれでひるむようなタマではなかった。玲奈も、挑戦的な目で聖を睨んだ。玲奈の眼はただせさえ、切れ長なのだ。横目で睨まれると、ますます怖い。聖は一瞬、気後れを感じた。しかし、こんなところでにらめっこをしている場合ではない。聖は二三歩前に出ると、先に口を切る。
「久しぶり」
我が口から出たのは、あまりにも悠長な一言だった。「脅迫状を出したのはお前だろ?」とか「いい加減にしろ!」とか強い口調で第一声を発するつもりだっただけに、自分でもこんな悠長な会話をしているのが信じられないぐらいだ。
「お久しぶり」
玲奈も玲奈で大人だ、聖はそう実感した。今度の九月で二十歳を迎える。高校時代に比べ、玲奈の髪はかなり伸びていた。桐子のボサボサのショートカットとは対照的な玲奈の艶のあるロングヘアー。余りにも、今の玲奈と桐子の立場は対照的だった。
「桐子に脅迫状を送りつけたのは玲奈だろ?」
今度は単刀直入に言えた。それと同時に、聖は桐子のことを子供の頃から呼び慣れた「川島」から「桐子」に変化している事に気付いた。
「ええ」
玲奈は余りにも簡単に肯定した。聖は一瞬呆気に取られた。しかし、玲奈の表情にほとんど変化は見られない。じっと聖のほうを見つめている。
「何で、ああいうことをしたんだ?」
聖は問うた。もう少し、自分でもオリジナルティーのあることを聞きたかったが、状況がそれを許さなかった。それぐらい、この二人の間の雰囲気は緊迫していた。精神的重圧がかかったときに考える、くだらない喩えさえ聖の頭には思い浮かばなかった。
「理由?簡単じゃない?聖のせいよ」
玲奈は聖にしゃあしゃあと言ってのけた。一瞬、自分の顔から血の気がなくなったことに聖は気付いた。一旦、心を鎮めた。それから、再度質問をぶつけた。
「何故?オレは特に何もしてないと、思うけど」
嘘だ。聖がストレートで大学に進学し、玲奈は二浪中。これで、思い当たる所がない、と言ったら嘘になる。ましてや、高校時代は玲奈のほうが成績優秀だったのだ。聖としては、理由がそんな単純な事ではないことを祈った。そんなアホな理由だったら、聖は桐子に申し訳が立たない。
「何もしてない?本当に‘何もしてなかった’ね」
そう言って、玲奈は一人で高笑いをした。聖は全身総毛立つ思い出した。あんなヒステリックな笑い声を玲奈が発することを初めて知った。そのことは、聖に二人の横たわる大きな溝を意識させられた。その溝は、深く底が見えない。しかし、聖にとって見れば「何もしてない」のに責任を押し付けられるいわれはなかった。聖は玲奈の頭が狂っているのではないかという懸念が生まれた。が、聖はその考えを頭のなから切り捨てた。
「‘何もしなかった’なら、そんなことを言われる覚えはないと思うけど」
聖は、自分の声の語尾がボリュームが落ちていることに気付いていた。それは、聖の自信の無さの象徴であり、どこかにある罪の意識だった。
「ええ。大学に入ったら、テニスばっかりでね。私のことなんて、どうでもいいんでしょ?」
玲奈はそう言って、初めて微笑んだ。妖艶な笑み、その言葉が一番的確だった。玲奈の声はどこかに、自嘲的な響きが含んでいた。
「いや、別に受験勉強が忙しいだろうから、会いに行かなかったわけで、別にどうでもいいと思っているわけではない。それだけは、断言する」
そう言いながら、聖は自分の声が再び嘘を含んでいる事に気付いていた。浪人中の「きょうだい」の同級生と話すことと、桐子や健治と馬鹿話に興じる事は、どっちが荷が重いかは言うまでもなく前者だった。その結果、「受験勉強が忙しいだろう」というのを口実に、玲奈に会いに行かなかったのも事実なのだ。その結果こういうことが起こっていることに対して、聖は深い自責の念を抱いた。しかし、だからといって玲奈にここで謝罪することは出来ない。それをやってしまうと、桐子は永遠に救えまい。そう言いつつも、桐子の精神状態と同じく玲奈の精神状態も限界に達している事は聖もひしひしと感じていた。そして、聖の精神状態も。
 玲奈は、聖の言ったことばの中の嘘に気付いたのか、そのまま回り右をすると家の中に戻っていった。玄関前には、聖だけが残された。

chapter 6 物語の終わり

 聖が訪問をしてきた翌日、桐子はふらふらと大学に出て行った。そして、何の気なしにキャンパス中を放浪した。そして、至る所で桐子の超能力――と、桐子は呼ぶ事にした――は勝手に発動した。
 例えば、こういうことがあった。向こうから、初級英語を担当している講師の加藤忠人(かとう・ただひと)が歩いているのを、桐子の視覚中枢は意識した。そして、それが大脳に伝わる前に、超能力の発動指令が伝わった。
 加藤が歩いている横に校舎があった。そして、桐子はその窓からあるものが落ちてくることに気付いた。最初は何かわからなかった。それは本棚だとわかったのは、そのあるものが加藤に見事に的中してからだ。救急車が駆けつけた頃には加藤はすでに死んでいた。
 さらには、こういうこともあった。自分が所属している薬学部近くに来た時だった。向こうから、桐子は同じクラスの金田月《かねだ・つき》という女の子が歩いていることに気付いた。桐子と同じクラスになった時、月《つき》とは変わった名前だなあ、という感慨を覚えたことは覚えている。しかし、今度ばかりはそれが命取りになった。月は、そのまま道を折れて、薬学部の建物中に入っていた。中で月が毒薬を煽る為に。もう、桐子は自分を認識できる状態ではなかった。

大学生、薬をあおり死亡

F市H区のK大学で、金田月さん(19)=同大学生=が薬学部棟で倒れているのを、学生が発見し警察に通報した。病院に運ばれた時には金田さんはすでに死亡していた。警察は、突発的な自殺を図ったものとして捜査を調べている。警察は、K大学学長並びに同大薬学部長に「劇薬の管理徹底」などを盛り込んだマニュアルの徹底を要求した。なお、この事件に関して薬学部長はK大学学長に対し、辞表を提出した。
――二〇〇四年四月××日付 N新聞F版三十四面

 聖は朝食を食べている途中、新聞の片隅に載っていた記事に気付いた。トーストされたパンを皿の上に戻して、その新聞記事に顔を近づけた。K大学とは自分の通っている大学だったからだ。しかし、しばらく読んでいるうちに、聖の体を悪寒が走った。金田月Tsuki KanedaイニシャルはT.K.。聖は自分で偶然だと、言い聞かせた。世の中、T.K.というイニシャルの人間は決して少なくない。大体、脅迫状どおり北川で死んだわけではない。しかし、K大学薬学部というところが気になる。K大学薬学部は桐子の所属している学部だ。全く、関連性のないとはいえない。念のために、今日桐子の家に行ってみよう、聖は心のどこかにそう誓った。

 聖は全力でかけていた。桐子の家に通じる上り道だ。この事件が始まって以来――正直、いつ始まったかさえ明らかではないのだが――、全力疾走は二度目だ。聖はこんな全力疾走をしたのはいつ以来か考えようとして、やめた。そんな余計な事を考えている暇があったら、一秒でも早く桐子の家に行きたかったからだ。それは、一歩一歩解決に近づいているように見えていたが、遠ざかっているようにも見える。それどころか、この事件は何が謎なのかさえよくわからない。桐子を脅迫状が来て、その送り主もわかった。それにもかからず、この謎は続いている。あの脅迫状に書いてあった北川伝説は本当に存在するとしたら…?金田月の名前が再び浮上したが、慌てて打ち消した。そんなわけがない、こんな二十一世紀に…、そこまで考えた時、ようやく桐子の家が見えてきた。
 桐子の家の前に着くと一旦深呼吸して呼び鈴を押した。誰も出ない。二度目を押した。ようやく、インターフォンに反応があった。
「はい…」
わずかな声量だが、言うまでもなく桐子本人だった。そう言えば、桐子の両親は共働きだったのだ。
「早坂だけど」
名前を告げると、電話が切れる音がして、玄関から桐子本人が顔を出した。聖は桐子を見たとき、再び呆気に取られた。一昨日にあった時に比べて、随分と衰弱していたからだ。顔色がわるい、どころではない。真っ青だ、と表現した方が正しい。眼は完全に死んでいた。

 今現在、聖が最初にするべきことは、桐子の社会復帰だった。聖はひとまず、桐子を外に連れ出す事にした。天気は雲が覆っていて、余りよくはない。ともかく、雨よりかはマシだった。ここ半月ぐらいずっと部屋の中にこもりっ放しの桐子を部屋の外に連れ出すのが第一の目的だった。
 聖は桐子を支えながら歩いていた。桐子が貧血で倒れることが、聖の最大の懸念だったが、そんなことを気にしている場合ではない。桐子の生理と重なっていないことを祈るだけだ。いつの間にか、二人は山道を降りて、北川高校の前まで来ていた。今日は日曜日だけあって、余り人気は見られない。野球部が校庭の隅でノックを受けているだけだった。
「超能力で人を殺せるって、信じる?」
桐子がようやく言葉を発した。が、言っている事が支離破滅だ。超能力で人を殺せる?そんな馬鹿な。
「桐子、しっかりしろよ」
「本当だって…。あたしがこの人の名前がT.K.だって認識した時に、その人は死んでいるんだ…。車の事故とか、火事とか、エレベーターの事故とか、本棚の落下とか、薬を煽っちゃうとか」
桐子の言葉はその辺を浮遊していた。エレベータの事故…そう言えば、最近F市でもあった。しかし、被害者の名前は覚えていない。本棚の落下と言えば…、先日K大学の講師がそれが原因で死んだ。被害者の名前は加藤、下の名前は覚えていない。薬を煽る…金田月のことだろうか。
「単なる偶然だろ?」
「偶然なんかじゃない。最近、あたしは気付いたんだ。ああ、自分が殺してるんだって。この間まで、自分に予知能力があると思っていたんだよね。でも、違う。今は、わかっている、自分が殺しているんだって」
「じゃあ、何で桐子本人は大丈夫なんだ?」
「さあ?わからない。最近、自分で自分の名前を忘れるようにしてたからだよ、きっと。正直言って、さっきから自分の名前を思い出せない」
自分の名前が思い出せない?そういう事があるのだろうか。記憶喪失とかそう言うものではない。自分の意思の力で、自分の名前が思い出せない。桐子がT.K.は死ぬという情報を信じ込み、無意識的に自分の名前をデリートしたのだろうか。全く、人間の思い込みの激しさと、生命維持装置が長けている事はよくわかる。
「きみの名前は川島桐子。イニシャルはT.K.」
聖は荒治療に出ることにした。桐子に自分の名前を認識させる事にしたのだ。それで、何も起こらなければ、桐子が勝手に信じ込んでいる北川伝説は崩壊する。
「私の名前は川島桐子…、イニシャルはT.K.」
そう、反駁した桐子の声は弱々しかった。
「ほら、何にも起きないじゃないか」
「本当だ…」
何も起きないという当たり前のことに、桐子はかなり驚いている様子だった。聖は心の中で勝利のVサインを作った。こんな単純だったとは、思いもよらなかった。
 
 健治は川島家について考えていた。両耳に嵌めているヘッドホンからは胡弓の演奏が流れていた。余りにも、その神秘的な音色と考えている事の神秘性がマッチしていた。
 北川が一望できる坂の上にある土地、かなり広い家。かつて、北川一帯を治めていた川島家にはピッタリの場所と言えた。さらに、あるところからの噂によれば川島家は付近一帯の山々を持っているらしい。そもそも、電話帳で調べた所川島という名前の家は北川には一軒しかない。だからこそ、川島桐子のいる川島家は川島藤十郎の子孫だという確率はかなり高い。
 そうなると、色々疑問点が出てくる。『大宰府風俗伝』に出てきた「我が身にくだせたまふ令は川島家のものには、七代末まで掟なり候ふ」だ。強引に口語訳をすれば「自分にくだした命令は、川島家のものには七代末まで掟になる」ということだろう。しかし、それだと様々な不都合が生じるだろう。例えば、川島藤十郎が「殿様のもとに刀よ飛んでいいき、殿を殺せ」という命令を下した時、川島家は代々殿様を何らかの方法で殺そうとしたに違いない。さすがに、それは不便だろう。もっとも、そういう命令を下したかは怪しいが。
 そこまで考えた時に健治は自分の考えている事の阿呆らしさに愕然とした。まず、超能力が本当であるという大前提のもとで語っているのだ。超能力何ていうものが存在するという根拠は…ない、と言おうとしてやめた。『大宰府風俗伝』の謎を解けないうちは、それが超能力が存在しないと決め付けるのはやめることにしたからだ。

 二人は大学に向う為に、バスに乗った。先ほどの事で、幾分気が和らいだのか、大分桐子の顔にも血の気が戻ってきたようだ。先ほどまで何とか持っていた天気が先ほどから小雨がぱらつき始めていた。
 ターミナル駅のバス停で降りたときに、聖は桐子に再度確かめた。
「自分の名前は?」
「川島桐子…。イニシャルはT.K.」
桐子はそれだけ言うと、ふらふらと道路の方に飛び出した。聖は慌てて後を追った。しかし、右から猛スピードで十tトラックが来ているのを見つけ、足がすくんだ。桐子は、そんなトラックに気付きもせず、道の真ん中を快調に歩き続けていた。
 そして、桐子は死んだ。

Chapter 7 後片付けの推理

 こうして物語は本当に終了した。
――佐藤友哉『クリスマス・テロル』講談社ノベルス

 ヒロインが死んでしまったらすでにその物語は終わりなのだ。主人公かヒロインが死んでいても、その物語がまだ続いていたら、きっと相方が心中する為だ。それが、誰が何と言おうとエンターテインメントの約束なのだ。
 だからといって、ここで聖を殺してしまうわけには行かない。謎はまだ大量に残っている。作者としても、たくさん伏線を張ったのに、それを使わないのはもったいない。こうして、物語はミステリ的なオチに向っていく。もっとも、超能力だ云々と言っておいて、ミステリもないだろう、という意見も当然おありだろう。しかし、これからの後片付けの推理は超能力が存在した、という前提で語られる。早い話、そういう前提なんていうものはどうでもいいのだ。超能力が存在したと言う状況で語れば、作中セカイに取り残された早坂聖と江川健治が納得できればいいのだ。それが、全ての事が終わったあとに推理する最大の意味なのだ。推理で事件を未然に防げなかったら、心のケア程度しか役に立たない。だからこそ、その推理は真実でなくていいのだ。本人達が納得できれば。
 だからこそ、作者は読者に求めたい。超能力の力は作中で藤十郎のいったとおりである。この前提のもと、推理していただきたい。正直に、告白すると作中人物よりも三人称の小説ゆえに皆さんの方が情報量は多い。例えば、東玲奈の独白などは作中人物である健治は知らない。だからこそ、皆さんに真相を当てて頂きたい。しかし、これからの真相は荒唐無稽は十分承知の上だ。先ほどもいったが、これは二人が納得する為に考え出したコジツケにしか過ぎず、真実とは限らないからだ(勿論、真実かもしれない)。本来ならば、ここで読者への挑戦状を挿入するところだが、何せこの話は本格ミステリではない。従って、フェアプレイに徹しているとはいい難い。が、伏線は作者としていたるところに張ったつもりだ。だからこそ、推理して欲しいのだ。何度もいっているが、この推理が真相とは限らない。もし、作中に出てきたことがすべて解決できるような推理があなたに存在するならば、それを真相と思ってもらっても構わない。作中セカイは虚構であり、某漫画とは違い真相は一つではないからだ。

聖からすべての顛末を聞き終えた健治は今度は聖に語り始めた。
「北川伝説は全てはティモシー・クラインが元だった」
健治は一旦切ったが、聖に返答する元気は残っていなかった。仕方なく、健治は次に話をすすめる。
「まずは、北川の謎のあらかたは超能力を使えば、簡単に説明が出来る。まず、北川の内部をどうやって支配してきたのか。簡単な話なのだ、川島家に代々伝わる超能力で人々を支配して来たに違いない。そうすれば、もし自分に歯向かってきたものがいたとしても、超能力で殺せばいいだけだから。
 川島家の人間は代々テレキネシス――日本語に強引に訳せば念動能力――を持っていたと推測される。もっとも、川島家の血をひいた人間なんて時代を経るごとに増えていくだろうから、直系の子孫しか使えない、などの制約はあったかもしれない。テレキネシスを持っていたからこそ、『大宰府風俗伝』にあったとおり自由に物が動かせたんだろうね。ただ、川島家のテレキネシスは他のテレキネシスと決定的に違う所があった。一度、発したテレキネシスの命令は七代末まで絶対だと言う事なんだ。テレキネシスの能力は遺伝する事はよく言われているが、先代に発したテレキネシスの命令までもが遺伝するなんていう話は聞いたこともない。これ自体は、『大宰府風俗伝』に書いてあることを信じるしかない。これ以外は、従来のテレキネシス現象と大差はない。自分の身近しか使えない――自分の視覚の範囲内――ことなどは典型的なテレキネシスだ。だからこそ、川島家は北川が一望できるあの場所に家を建てたんだ。北川に軍隊が入ってきたら一発でわかるし、反乱者もわかる。川島家が北川を一望できる土地にある、というのが川島家に超能力が伝わっていたことの証明だと思う。
 で、問題の「七代末」までの伝説だ。「北川に来るよそ者は川に転落させろ」という命を川島家の先代が出したと仮定する。これによって、江戸時代に幾度となくやってきたF藩の軍隊は川に転落して失敗したのだろうし、北川に入っていった者は死んだのだろう。この命令を知っていたからこそ、藤吉はF藩の城まで出かけている。もっとも、ここでも超能力を発揮したらしいけどね。
 それに対して、家長が藤十郎に変わった明治以降は逆にF市の役人が藤十郎の元に出向いている。おそらく、「北川に来るよそ者は川に転落させろ」という命は先代までにきれたに違いない。藤吉の七代前が誰かわからないけれども、戦国時代の頃からその命令は生きていたのだろう。しかし、藤十郎の時代にはその命はとうとう切れた。
 藤十郎は明治維新以降、きっと超能力を封じようとしていたに違いない。洋学を学んでいた藤十郎はこれから北川にも近代化が必要だ、思ったのだろう。だからこそ、『北川に来るよそ者は川に転落させろ』という命が自分の先代の藤吉で終わったことを利用して、超能力を封じて北川にも明治維新を進めようとしたに違いない。何故なら、本当にまだ自治を続けるつもりなら『北川に来るよそ者は川に転落させろ』という命を自分で発令しただろうからね。そうすれば、あと七代は北川は安泰だ。
 そこに一人の外国人がやってきた。ティモシー・クラインだ。明治維新をすすめようとしてきた藤十郎は歓待したに違いない。そして、クラインに面会を求めたのだろう。そして、クラインは応じた。ティモシー・クラインは『キタガワの川島家にサインを残してきた』と語っていた。これは、どういう意味だろう、って僕は一生懸命考えたよ。でも、これはそのままの意味だったんだ。
 今回の事件は全体的にそのまま考えるべき事が多かった気がする。超能力にせよ、何にせよ。あの桐子ちゃんの超能力の説明を素直に信じていれば、桐子ちゃんを救えたかもしれない」
聖はわずかに「桐子」という言葉に反応したように見えた。健治は続ける。
「『サインを残してきた』というのは、そのままの意味だったのだ。彼はT.K.というイニシャルを川島家に残してきた。どうやって、残したかはわからない。面会を求めた藤十郎の前で紙か何かにサインをしたのかもしれない。そして、洋学を学んでいた藤十郎にはその文字が読めたのだろう。
 ところが、ティモシー・クラインがある過ちを犯してしまった。北川を開花しつつある日本の一部と勘違いしたのだ。その文明開化には何が必要か、クラインはよくわかっていたのだろう。そして、建築技師であるクラインは北川の地形を見て、あることを閃いた」
健治はここでも言葉を切ったが、聖の様子に変化はない。ならば、こちらも変化をつける必要はない、健治はそう感じた。
「それが、北川ダムだ。勿論、これが実現したのは大正時代からだ。しかし、F市で最古のダムだ――『北川伝説』参照――。この時代から、そういう計画があったとしてもおかしくはない。地形状、両側から山が迫っており、真ん中を川が貫いている。そして、クラインは帰った途端にF市に北川をダムにすべきだと、告げた。
 さすがに、これを聞いたF市の役人から聞いた藤十郎は激怒したに違いない。洋学を学んでいた藤十郎はダムがいかなるものか、知っていただろうからね。ダムのせいで、北川の町が水没することを最も恐れたのだろう。結果的には、一山超えたところにダムは作られたために、北川の町はほとんど水没しなかったのだけどね。
 そして、藤十郎はとうとう禁断の命令を出してしまう。『T.K.という名前の持ち主とあったら殺せ』とかその辺りだろう。勿論、本当なら名前を指示したかったに違いない。ところが、藤十郎は名前を覚えれなかったに違いない。ティモシー・クラインなんていう名前は、現代人ならともかく、明治の人には無理だったのだろう。しかし、これでは最大の難点が出てしまう。藤十郎は自分の名前のイニシャルもT.K.ということに気付いたに違いない。それに代々、川島家にはT.K.というイニシャルの持ち主が多い。従って、藤十郎は一つ捻った。そして、『北川では超能力を封じる』と命じたのだ。
 しかし、当たり前の事ながらティモシー・クラインはとうの昔に北川を立ち去っていた。ひょっとしたら、子孫の誰かがティモシー・クラインと出会ってくれることを祈ってこういう命令を出したのだろう。実際明治一四年以降は、本人は北川の外にはほとんど出なかったらしいから。きっと、暴発を恐れたのだろう。
 ここで大きな問題が出てくる。僕が何故藤十郎がその時に出した命令を『北川では超能力を封じる』と推理したのか。それは、そのティモシー・クラインが立ち去った三年後に北川は自治を止めているからだ。今まで、超能力で支配してきた北川で、超能力が使えなければ何の意味もない。川島家の支配は川島家の神性と恐怖政治によって成り立っていたからね。その超能力がつかえなくなるという事は、北川の川島家支配の終わりを示していた。つまり、北川の自治は内部からの反乱で終わったのだ。だからこそ、F市で発行されていたかわら版には、北川自治の崩壊について何も書いてないんだ。交渉で北川自治が終わったなら、もっと大々的に報じただろう。しかし、彼らはいつ北川自治が終わったかさえわからなかった。当然、北川内部の事情なんて誰も知らないわけだから。だからこそ、僕はこの時自分の身に降りかからない為の命令を『北川では超能力を封じる』と推理した」
 健治は歴史部分の説明を終えた。聖は聞いていたのか、よくわからない状態だったが、健治は一人で説明を続ける。
「その後、『北川では超能力を封じる』『T.K.という名前の持ち主とあったら殺せ』という二つの命令は生き残り続けた。でも、徐々に錆びついていってしまったに違いない。そうではないと、町中でT.K.という名前の持ち主が死んでいっただろうからね。
 ところが、完全に死んだわけではなかった。ちょっとした、きっかけさえあればその命令は幾らでも再発する環境にあったんだ。そのきっかけが――」
「脅迫状」
先ほどから全く喋っていなかった聖がいきなり口を出した。健治が頷いて、話を続ける。
「そう。正直、僕も悩んだんだ。あの脅迫状の内容が余りにも伝説とマッチしていたからだ。ところが、君の話を聞いているとその伝説をその東玲奈が知っていたとは思えない。だからこそ、川島桐子と甲斐正という二人のイニシャルから玲奈が考え付いた創作だと、僕は考えた。その真偽はともかく、あの脅迫状で藤十郎の命令は再現された。
 あとは彼女が死ぬ間際に語ったとおりだ。バスの事故、医者の火事、エレベーターの事故、本棚の落下、薬を煽る。すべて、それらの事件で死んだ人の名前はT.K.だった。しかも、バスの運転手や医者、エレベータガールはすべてネームプレートをつけている職業だ。そして、本棚の落下で死んだ講師と薬を煽った少女は、桐子の知り合いだった。すべて、桐子が名前を知りえた人間達だ。そうして、彼らを桐子は殺した。
 さらには、ここで問題になってくるのは、何故桐子本人は死ななかったのか、というのが出てくる。当初は、『北川では超能力を封じる』という項のおかげだったのだろう。桐子自身は北川の外に出て行くこともしばしばある。それなのに、何故桐子は死ななかったのか。
 早い話、桐子自身が相次ぐT.K.の死で錯乱状態に陥っていたからだ。ひょっとしたら、脅迫状が来ていた頃から錯乱状態だったのかもしれない。だからこそ、理性の制御が利かなくなり、超能力が暴発したのかもしれない。結局、どっちでも同じ事だが、桐子は著しい錯乱状態に陥っていた。『さっきから自分の名前を思い出せない』と桐子本人が語った事は本当だったんだ。だからこそ、生き延びていた」
ここで、健治は言葉を止めた。ここからは、本当は言いたくない。でも、明らかにしなければならない。健治は聖の顔から目線を外した。聖の顔を直視できなかったのだ。
「そんな桐子に、君は桐子の名前を再認識させた。最初に認識させた時は北川だったから助かったに違いない。だけれども、二度目に認識させた所は大学に向う途中――つまり、北川以外の場所だった」
健治はそう言って今度こそ本当に切った。次の言葉は語りたくなかった。

 聖は黙って聞いていた。そして、ポツリと呟いた。
「それが本当なら、オレが殺したようなものじゃないですか」
健治は答える事は出来なかった。事件の前にこういう事がわかっていたとしても、どういう解決方法があったのだろうか。すでに、超能力が暴発してしまった以上、T.K.の名を持つ桐子の死は決定したようなものだったのだ。健治は聖を慰める意味もあり、打つ手はなかった事を告げた。しかし、聖は意外なことを言った。
「そんなの一杯、解決方法がありますよ。オレが桐子と結婚する、とか」
聖は真面目に言っているのだろうか。まあ、確かに結婚すれば桐子のイニシャルはT.H.となって、桐子は安泰だ。桐子も聖もすでに十九歳になっている。しかし、二人とも親権の保護下だ。
 愛のない結婚という言葉が健治の頭の中にイメージされた。これほどまで、愛のない結婚はない。いずれは離婚し、川島桐子の戻るだろう。結局は同じ事だ。

 事件中、聖が桐子に恋した、なんていうことはさすがに健治にもわかったことではない。

その数日後、新聞の片隅にこういう記事が載った。
閑静な北川で殺人、犯人は逃走中

昨日午後二時頃、北川で東玲奈さん(19)=予備校生=が公園で殺されているのを通行人の人が発見した。警察は行方がわからなくなっている高校時代の同級生(19)=大学生=が何らかの事情を知っていると見て、捜索している。
――二〇〇四年四月××日N新聞F版

 早坂聖の逃走劇はまだ続く。
⇒物語は北川伝説のchapter 3に戻る。

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